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2009年7月 9日 (木)

神奈川県立近代美術館の「建築家坂倉準三展」を見ながら

勝手に建築観光36回&鎌倉ちょっと不思議な物語第198回

坂倉準三は大学卒業後、1929年に渡仏し、ル・コルビジュのアトリエで働き、彼の仕事をつぶさに見聞きしてそのノウハウを身につけた建築家です。

1937年にはパリの万博日本館の設計でグランプリを獲得、1939年に帰国してからはここ鎌倉に1951年に神奈川県立近代美術館を建てたり、1966年には新宿西口広場や地下駐車場のデザインを担当してフォーク集会に格好の場を提供するなど、わが国の建築史上に多大の功績を残し、全共闘運動の波動も禍々しい1969年に68歳で亡くなりました。

この人の特徴はやはり師匠ル・コルビジュ直伝のモダニズムと、そこに薄味の醤油のように加味された和風趣味のハイブリッドということではないでしょうか。それは東京市ヶ谷の日仏会館や本展が開催されている鎌倉の県立近代美術館を見ればよくわかるようなきがいたします。

市ヶ谷の高台に聳えるおふらんす文化の白亜の殿堂、東京日仏学院はそのモダンな内外装も見事ですが、その昔は語学を教える超絶的美人が何人もおりまして、当時田舎から上京したばかりの私は、最初の授業でうっかり最前列に座ったばかりに œuの発音を何度も何度もやらされました。

その金髪のミレーヌ・ドモンジョそっくりのパリジェンヌは、微笑みながら私の唇すれすれにその美しい唇を突き出して œu、 œuと繰り返しますと、シャネルの5番の香水がほのかに混じった生あたたかい息が、まともに私の顔に当たるので、私は生まれて初めて卒倒しそうになりました。

恥ずかしさに真っ赤になった私が、彼女の「口移し」でœu、 œuとうなりますと、その度に「ノン、ノン」なぞとたしなめられ、何度も何度もやり直しを命じられる。
このようにして美しき女教師ドモンジョ嬢の血祭りに上げられた三四郎は、もうこりごりと次回からの夏期講座を放棄してしまったのですが、そのおかげで女性とフランス語に対する致命的なトラウマを刻印されることになってしまったのです。

しかし、もしもあのシャネル鼻息攻勢に懸命に耐えて通っておれば、おのずとまた違った展開があったかもしれない、などと思いかえせば、いまなお恨めしき坂倉準三設計のお化け屋敷であります。

思いっ切り横道にそれてしまいましたが、八幡宮の入口右にひっそりたたずむ県立近代美術館は私のお気に入りの場所で、2階のカフェから見下ろす平家池の蓮は絶品です。なによりも土と水と緑に完全に溶け込んだ建物の、目立たなくて、上品で、温和な風情が私たちの心にしとりとなじむのでしょう。

それにしても、ル・コルビジュは、いったいどこから彼一流の高床式建築術を編み出したのでしょう。もしかするとアジアやインドシナ、南洋諸島の古い土俗的な様式から学んで、近代建築に生かそうとしたのかもしれませんね。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallTop.do?hl=k

♪ああわが青春の麗しのドモンジョいまごろどこでどうしておるか 茫洋

2009年7月 6日 (月)

井上章一著「伊勢神宮 魅惑の日本建築」を読んで

照る日曇る日第269回

これは特に伊勢神宮について論じた本ではなくて、我が国の大昔の建築物は、どんな姿形をしていたかを真正面から論じた「超」の字が2つほどつく力作であり、日本の建築学にとってじつに貴重な価値をもつ書物です。

建築史には、あの築地本願寺や大倉集古館の設計で知られる伊東忠太や太田博太郎など、いくつかの定評ある名著と称されるものがありますが、著者はこの建築の起源問題に関するおよそすべての資料を記紀の時代、平安、江戸時代の文献や研究結果をまるで草の根をわけるようにして精査比較検討し、その結果として、これまでの学説の定説をほぼ全面的に否定し、著者の東大と京大の学閥にかんする興味深い観察を交えつつ556ページに及ぶ大論考を終えています。

著者によれば歴史、建築、考古学の学者や研究者の多くが、伊勢神宮に我が国の古代建築の源泉があると信じてきました。
またご承知のようにこの神宮は、大昔から社殿を20年ごとに建て替える不可思議な営みを、(戦国時代の混乱と謎や改築の際の幾多の歪曲はあるものの)、天武帝の頃からおよそ千年以上にわたって繰り返してきました。

伊勢神宮の社殿は、「棟持柱(棟木を側面から直接支える柱)をともなう高床建築」だそうです。そしてこの神明造りという建築スタイルは、七世紀の末頃まで歳月による風化や大陸からの仏教的な建築様式の影響をかたくなに排除しつつ今日まで存続してきたといわれています。
そもそも「日本」なる国家がそれまでの「倭」に代わってこの列島に登場したのはちょうどその天武帝の時代なので、この伊勢神宮の神明造りこそ日本の最古の建築様式かもしれません。

それで話が終わればめでたしめでたしなのですが、シンプルでモダンなデザインがお好きな我が国の多くの学者たちは、この「日本的な建築の祖形」を、「日本」確立以前の太古や古墳期、さらには遠く弥生、縄文時代の彼方にまで拡大し、遡らせようと「国粋的」かつタコ壺的な努力を夜郎自大に続けてきたのです。 

考古学学者の研究によれば、有史以前の日本列島には伊勢神宮のような棟持柱をともなう高床建築はたくさん建てられていたようです。ところが、これら棟持柱をともなう高床建築は昔から中国の長江や雲南省、さらにもっと南に下がってインドネシアやオセアニア地方などにもたくさん存在しています。

もしかすると伊勢神宮に代表されるこの荘重なまでに日本的な建築の祖形は、ニッポンチャチャチャ学者の大いなる期待と予想に反して、南洋諸島の海岸に立ち並んでいる高床式の簡素なニッパハウスなのかもしれません。

  
♪ご先祖は南洋ニッパハウス住まいぞニッポンチャチャチャ 茫洋

名も知れぬ南の島より流れ来しニッパハウスぞ先祖の我が家 茫洋

2009年7月 5日 (日)

藤原道長「御堂関白記」上巻(全現代語訳)を読んで


照る日曇る日第268回

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
という歌を詠んだといわれる藤原道長の自伝の現代語訳です。

 こういう手放しの自画自賛を臆面もなくやってのける奴はいったいどういう人物なのかと思って手を出したのですが、なかなか面白い本でした。
 
まず「この世をば」と即興でなぜ詠めたのかといいますと、これは道長が朝はお天道さま、夕べはお月さまを必ず観賞する人間だったからだと断言できます。
彼の日記は必ずお天気メモから始まり、夜の名月や笠置寺参拝の折の流星の記事などまるで天体観測家を思わせるほど。功なり名を遂げ摂関政治の頂点に立った自負を月に例える必然性はその日常生活の習慣からきているといえそうです。

道長は、お天気や彼の日常や身辺で起こった怪異だけでなく、14歳違いの甥の一条天皇との政治的な協調ぶりやちょっとした反発、寺院における法華八講などの盛大な法事や除目の詳細、さまざまな儀式や賀茂祭などの祭典、頻繁に行われた作文会(漢詩を作る)のテーマなどについてもくわしく書き記していて、ちょっと永井荷風の日記に似た関心の広さを示しています。次々に病に侵されるところや、連日のように相撲取りに相撲を取らせて喜んでいるところなど、とても一〇〇〇年前の人物とは思えません。

けれども荷風と違って日記の文章にはいっさい屈折も韜晦もなく、なにをどう述べても単純明快そのものであり、彼の精神がまことに健全で、西欧のルネッサンス時代の知識人のような強靭な知性と晴朗さ持ち合わせていたことを雄弁に物語っています。

面白いのは、当時の皇族や貴族たちは「毎日が物忌デー」といえるほど数々の禁忌に取り囲まれて暮らしていたということです。
たとえば甥の一条天皇が住んでいる内裏では、しょっちゅう犬や鳥、時折は身元不明の人間の死体が発見され、その度に安倍晴明などの陰陽師が呼び出されて占い、その託宣次第でさまざまなリアクションが起こります。いまから1000年目に陰陽師たちがこれほど権力者たちに重用されていたとは驚きです。

それから忘れてはならないのが、藤原道長と紫式部、源氏物語との関係です。
寛弘2年10月1005年の浄妙寺三昧堂の供養における法王・天皇をはじめすべての皇族や貴族百官や高僧たちが居並ぶなかで粛々と繰り広げられた荘重な儀式や読経、楽器の演奏などの華麗なパフォーマンスの数々、あるいはその3年後に一条帝が左大臣道長が住む土御門邸を訪ねるシーンでは、はしなくも紫式部が源氏物語で描写した華やかな式典と権力者たちの栄枯盛衰の無常をまざまざと想起させ、光源氏のモデルに擬せられる道長の存在ともども、いずれが表でいずれが裏か、いずれが真でいずれが虚か、と日記の細部に至るまでつきせぬ興味が湧いてくるのです。


♪ほらほら千年前の巨魁が今日も土御門邸で梅の漢詩を作っているよ道長日記 茫洋

2009年7月 3日 (金)

「ゲバゲバサマーショー展」をのぞいてみたら

バガテルop105

東京のJR大塚駅北口徒歩10分にある画廊MISAKO&ROSENで7月19日まで開催されている展覧会「ゲバゲバサマーショー」は、新進気鋭の現代作家たちのカジュアルな新作が狭い会場せましとラインアップされ、それこそゲバゲバで楽しいカオス状況をかもしだしています。

油彩、アクリル、水彩、スケッチ、肖像、いたずら書きなども交えた小品が中心ですが、アイデア満載のビデオ作品、インスタレーションなども出品されており、おもちゃ箱をひっくり返したようなハチャメチャさと新鮮さが魅力です。

参加アーティストは森田浩彰、後藤輝、服部あさ美、ディーン・サメシマ・トレバー・シミズ、今井俊介、岸本雅樹、相田可奈子、ダン・ハーズ、ウイル・ローガンなどの面々ですが、私は佐々木健が描いた2つの小さな油絵の新境地に打たれました。

この作家はここしばらくはアンプや楽器などおよそ見栄えのしない身近な物をモノトーンで描き続けてきました。そういう石ころのように地味な物を凝視し、その物の内部に肉薄し、その物の核心をつかみ取ろうと地を這うような精進を続けてきたようです。

そして作家の努力と研鑚は、描かれたただのラジオやペットボトルが、平成のアール・ヌーヴォーとでも呼ぶべきある種の生命性を獲得し、「物の精霊」それ自体が発するような不思議な燐光を発しながら静かに輝いている、そんな光景をついに出現させたのではないでしょうか。

梅雨空の下、ギャラリーの外では無情の雨が降り続いていましたが、私は名状しがたい感動につつまれてそのちっぽけなキャンバスに見入っていました。


◎ゲバゲバな4週間→http://www.misakoandrosen.com/exhibitions/09/06/


水無月尽今年最初の蝉がなく 茫洋
水無月尽今年最初の仕事来る

2009年6月29日 (月)

さようなら眞木準


遥かな昔、遠い所で第84回

既にして旧聞に属すかもしれませんが、去る22日にコピーライターの眞木準氏が急性心筋梗塞で亡くなられたことを私は読み残しの新聞を整理していてはじめて知りました。

彼の最新にしておそらく最後の作品は、宣伝会議社の「内定取り消しされた方5名まで引き受けます」でした。しかし、彼の真価は伊勢丹の企業広告や全日空の「でっかいどお。北海道」に示されるしゃれた言葉遊びの切れ味と軽妙な語呂合わせとにあって、その奥深い引出しを準備するために普段から有名無名の作家の作品を渉猟していたことは、ある日突然私が訪れた彼の西麻布の事務所の書架を眺めれば一目瞭然でした。広告文案作成業の極意が機智の駆使にありとせば、彼はその当代一流の専門家であり、人並みはずれた才知と言語操作の高等技術がそれを可能にしました。

私は多くのコピーライターと仕事を共にしましたが、テレビCMのダビングの現場に呼びもしないのに駆けつけてくれたのは彼だけでした。ダビングというのは撮影済みの映像にスタジオでナレーションや音楽を録音する作業ですが、コピーについてはとっくの昔に広告主との打ち合わせを経て決定しています。だからコピーライターの立会は必要がないはずなのですが、彼は「書かれたコピーがいかに良くてもそれが話し言葉になったときに当初想定されたインパクトをもたらさないことが稀にある。だから自分はここにやってきた」と言うのです。なるほど、そういうケースは何度かありましたが、「ちょっと違うなあ」と思いつつそのまま録音してしまうのが通例でした。

そこで私が、「もしそのコピーが映像に合わなければどうするの?」と尋ねますと、彼はそんなこと当り前じゃないかという顔をして「だから合うやつをその場で僕が書くんです」と答えたものでした。それを平然と言える彼の自信と仕事に対する彼の誠実さにこれほど打たれたことはありません。

また思い出すのは、私がサラリマン街道から突如放り出され路頭に迷っていた折のことです。いちはやく手を差し伸べ、「広告料金定価表」なる分厚い請求金額の相場を記した本を手渡して、ともかく中年広告売文業者として身を立てるよう「実務的に」促してくれたのも彼でした。その日から一〇年に近い歳月が流れましたが、彼と最後にパスタ屋で会った日の励ましの声は、今も耳朶の底に残っています。

ありがとう。そしてさようなら眞木準


ありがとうそしてさよならと言いつつわれら別れゆくなり 茫洋

2009年6月24日 (水)

本覚寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第195回

鎌倉駅からほど近いこのお寺は、もとは源頼朝が幕府の守り神として建立し、天台宗系の夷堂があったのですが、永亭8年1436年に日出が日蓮宗のお寺として再建しました。2代目住持の日朝はのちに身延山久遠寺の住持になったとき、そこにあった日蓮の遺骨をこのお寺に分骨したので、本覚寺はそれから「東身延」とも呼ばれるようになった、と「鎌倉の寺小事典」には記してあります。

 またその日朝が魔の病気を患った時、法華経とみずからの治癒力で治ったという言い伝えがあるこのお寺は、「日朝さん」と親しまれ、眼病、縁結び、商売繁盛に霊験あらたかとされて人気があるそうです。
さらには、松平定信の直筆による「東身延」の額も残っているそうですが、いったいどこにあるのやら。今度行った時によく調べてみましょう。

私が個人的にいちばん興味をひかれるのは、このお寺の墓地に刀工正宗が葬られていること。正宗は、鎌倉時代に当地にあって「相州伝」という特徴を備えた数々の芸術的な名刀を鍛えただけではなく、幾多の弟子として育て上げたことであまねく知られていますが、その名人がこんなお寺に眠っているとは。

ちなみに鎌倉には正宗の子孫と称する日本刀の刀匠が現在も小町の街中で活動中(太刀を打つ現場を観察することもできる)ですし、置石や長谷の商店街には数多くの刀商が営業しています。

    ♪ミラノスカラ座より帰国せしや平成正宗後継者 茫洋

2009年6月20日 (土)

ミルチャ・エルアーデ著「マイトレイ」を読んで

照る日曇る日第265回

これは、ルーマニア生まれの宗教学者ミルチャ・エルアーデが、若き日にインドを訪れたときの体験を赤裸々につづった大恋愛小説です。イタリア・ルネサンス哲学の研究のためにインドを訪れた作者は、インド各地を旅行し、タゴールに会い、タントラ・ヨーガにのめりこみますが、それ以上に漆黒の肌の魅惑のベンガル女性マイトレイとの運命的な恋に遭遇します。

大きく黒い眼、厚い唇、熟れた乳房……はじめはむしろ醜いとすら思えた異貌の異性にふとしたはずみに惹かれ、思いがけない深みにはまる体験は多くの方々がお持ちでしょうが、エルアーデの場合はそれがいちおう文化的に先進国であると自他ともに考えていた白哲の欧州男と亜細亜的後進周縁国の僻地に住む異文化の女性という異色の組み合わせでした。

衣食住も思想も風土も風習も宗教もすべてが面白いくらいに異なる2人が、おそらくはその違いゆえにどんどん惹かれあっていき、周囲の懸念や反発をものともせずに愛し合うありさまはよくあるタイプの初恋物語ではありますが、その文章がおそろしく事実に忠実に、青春の情熱と愉楽の限りを刻印しているために読者はぐんぐん引き込まれて、あれよあれよという間に、お決まりの悲劇的なラストまで付き合わされてしまいます。

21歳と17歳の若者の激烈な恋愛とその蹉跌が主人公たちのその後の生涯にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。燃えるような、狂うような恋をした2人は、それから43年の後に1973年シカゴで再会したそうですが、いったいそこでどのような対話が交わされたのでしょうか。エルアーデが1933年に書いた本書に応えるように、マイトレイは1976年に「愛は死なず」を世に出したと聞くと、こちらもあわせて読み比べてみたくなりますね。

♪ひとたびは燃えつき果てた恋なれど43年目に燃え上がるかな 茫洋

2009年6月19日 (金)

青木美智男著「日本文化の原型」(小学館日本の歴史別巻)を読んで

照る日曇る日第264回

日本文化の原型は普通は室町時代にできたと考えられているようですが、著者はそれを江戸時代に求めて、民衆の視座から見た文化、とりわけ衣食住の基礎の確立のありようを事実に即して、生活の現場に即して、実態的に見定めています。高踏的な歴史叙述を避けて下から目線の文化史に挑戦した意欲はおおいに買えます。

たとえば食の革命はまさしく江戸時代になされました。醤油、清酒、出汁が発明され、庶民の食生活は一挙に味わい豊かなものになったのです。味醂は江戸時代は女性の飲み物で、これが調味料になったのは幕末になってからだと著者はいいます。

江戸時代の酢は主に相州中原(平塚市)で生産され、これが中原街道経由で江戸城に運ばれていたそうですが、江戸後期になると料理以外の需要、すなわち友禅染という絢爛豪華な絹の衣服が登場したために大量生産されるようになったそうです。酢には酢酸が3割ほど含まれており、これが友禅染の染色過程の定着剤として流用されたというのは初めて聞く話でした。絹の染色をいっそう効果的にするために出羽村山特産の紅花や阿波藍なども増産されることになりました。

わが国では平安・鎌倉・室町・戦国時代まで庶民の大半の衣服は苧麻(ちょま)でしたが、これは栽培から織り上げまでには大変な時間と手間を要し、そのために鎌倉・室町の女性は農耕に従事する余裕がなかったほどでした。そこへ登場したのが着心地も耐用性も汎用性も抜群の木綿です。戦国時代には兵衣、火縄などの軍事用に使われていたものが江戸時代に入ると急速に普及して大衆衣料の主流になりました。新品が不足したために全国に巨大な中古市場が形成され、幕府は大伝馬町の木綿問屋に独占販売権を与えて統制を図りました。幕府は武士には絹、農工商には木綿という繊維格差を押し付けることによって身分制度を固定化しようと企んだのです。

いっぽう最高級の絹織物、西陣織で身体を華美に彩ることは権力者やセレブ階級の最大の願望であり、ステータス・シンボルでありました。江戸初期の幕府は生野、石見の銀山や佐渡の金山で採掘された金や銀を代償にして中国やベトナム産の膨大な生糸や絹を買い付けた結果、かつての黄金の国ジパングはたちまち瓦礫の列島に変身してしまいました。

仕方なく幕府は銅や伊万里焼を輸出するとともに、正徳3年1713年、国内における絹生産体制の早期確立をめざすことになります。そしてその結果、信濃、上野桐生、下野足利、陸奥信夫・伊達など各地で西陣織のノウハウを移植した絹織物の産地が呱々の声を上げ、私の郷里に近い丹後半島の与謝郡でもあの有名な丹後縮緬が誕生したのです。

以上のように、ちょっとしたさわりだけでも、とても為になる1冊です。

金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴 茫洋

2009年6月17日 (水)

海蔵寺の「底脱の井」を覗く

鎌倉ちょっと不思議な物語第193回

幸いにも観光客があまり訪れない海蔵寺ですが、その閑寂な趣をさらに情趣豊かにしているのが寺院の外の2つの井戸です。

まずお寺の入口の右側に「鎌倉十井」のひとつである「底脱の井」と明治二七年五月に建立された歌碑があります。

千代能がいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらず

 この歌の作者は霜月騒動で惨殺された悲劇の武将安達泰盛の娘で無着如大という尼僧ですが、俗名を賢子、幼名を千代能といました。彼女は早くに夫に先立たれたので京の東福寺で修行を積んで「法は如大一人にて足りる」と称されるほどの大知識になりました。
彼女は素晴らしい美貌の持ち主でした。この海蔵寺の仏光国師に師事しようとしたとき、僧の修行の妨げになると断られた彼女は傍らにあった焼き鏝をその美しい顔に押し当ててやけどの傷をつくり、やっと弟子入りを許されたそうです。

そんな彼女がある日夕食のために水を汲んでいたのが、この「底脱の井」でした。突然桶の底が抜けてしまった瞬間長年の心の煩悶が一気に氷解し、そのときに詠んだのがこの歌だといわれています。

もうひとつは薬師堂の裏側の山腹にあるやぐらの中に16の穴が掘られた「十六ノ井」ですが、現在もきれいな水が湧いています。

以上は鎌倉文学館の資料をもとにリライトしました。


谷川さんの下手くそな詩を読んでいると自分も書こうという気持ちが起こってくる 茫洋

2009年6月16日 (火)

扇ヶ谷に海蔵寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第192回

扇ヶ谷のどんづまりにある瀟洒なお寺が海蔵寺です。このお寺は四季折々にさまざまな山野草が咲く鎌倉随一の花の寺として有名です。

海蔵寺は応栄元年1394年に鎌倉公方足利氏満の命を受けて、元は真言宗の寺があった跡に上杉氏定が再建しました。開山は謡曲「殺生石」で知られる心昭空外(源翁禅師)です。本殿も立派ですが、古雅な趣を湛えているのが薬師堂で、ここには胎内仏をおさめた薬師如来、別名啼薬師、児護薬師が安置されています。

ある日のこと、寺の裏から赤ん坊の泣き声がするので源翁禅師が声の主を探すと金色と甘い香りが漂う古いお墓がありました。そこで禅師が経を唱えながら掘ってみると、現れ出たのがこの薬師像だった、という言い伝えがあります。ただし胎内仏を拝めるのは61年毎とされているそうです。

それから謡曲「殺生石」では白狐のたたりで殺生をひきおこす石を源翁禅師がえいやっと杖で打ち砕きますが、かなづちを別名「げんのう」と呼ぶのはこの故事から来ているそうです。また江戸時代に建てられた茅葺の庫裏は歴史的な価値が高く、本殿の奥にある心字池と庭園の美しさとともに捨てがたいものがあります。

以上は「鎌倉の寺」(かまくら春秋社)から勝手に引用しました。


玄関に片っぽうだけ転がっている妻の黒い靴 茫洋

2009年6月15日 (月)

阿仏尼の墓を訪ねて


                  
鎌倉ちょっと不思議な物語第191回


夜もすがら涙もふみもかきあえず磯越す浪にひとり起きゐて

これは鎌倉時代に「十六夜日記」を書いた阿仏尼の歌ですが、私たちの時代ときわめて似通った近代的な心の動きを感じ取ることができます。

阿仏尼は夫が遺してくれた荘園の権利を求めて幕府に直訴するために、おんなひとりではるばる京から鎌倉まで下向してきます。そして以前このシリーズでもご紹介したように、極楽寺の近くの月影の谷で生活しながら、おりふし海岸に打ち寄せる波の音や松に吹き寄せる風の音に耳を傾けながら都の知人に文を送り、いっこうにはかどらない訴訟の進行に耐え忍んでいたのでしょう。

そんな阿仏尼の墓が極楽寺から遠く離れた英勝寺(ここはあの山吹の歌で有名な太田道灌邸であり現在は鎌倉唯一の尼寺)の傍らにあるのは意外な気もしますが、彼女の息子冷泉為相の墓がここからほど近い浄光明寺の山頂にあることを考えれば、もしかすると江戸時代に建立された現在の英勝寺の場所に、かつては別の寺院が建てられていて、阿仏尼はその晩年をそこで過ごして葬られたのではないでしょうか。

そう考えてわが枕頭の書「鎌倉廃寺事典」をおそるおそる開いてみますと現在の英勝寺の元は智岸寺であり、やはり尼寺であったと記されています。「鎌倉志」にも「智岸寺谷は英勝寺の境内なり」とあり、「古は寺ありけれども頽敗せり。近比まで地蔵堂のみありしが是も今はなし」と述べられています。そして智岸寺はかつては尼寺、駆け込み寺として知られていた東慶寺の隠居寺的役割を果たしていたそうなので、阿仏尼が浄光明寺ではなく智岸寺でその寂しい生涯を終えた可能性はかなりたかそうです。

ちなみに地蔵堂に祀られていた地蔵菩薩は1684年当時すでに鶴岡八幡宮僧坊正覚院にあり、その後瑞泉寺に移ったことが確認されているので、私たちは瑞泉寺に行けば阿仏尼が拝んだ尊像に対面できるというわけです。

 
♪またしても「スイカ」の種は尽きにけり働き悪く金のなき日に 茫洋

2009年6月10日 (水)

「まんだら堂跡」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第190回

名越切通の近くにまんだら堂の旧跡がありますが、ここは最近発掘調査が行われており、残念ながら立ち入り禁止となっています。お堂の正体は不明であり、周辺には数多くのやぐらが散在しています。四季折おりの草花が咲き乱れるお花畑としても知られ、またお堂の下を走る逗子トンネルは昔からお化けの名所として有名です。

私の想像では、おそらくここは鎌倉時代の武将や貴族、僧侶などを葬った集団墓地であり、まんだら堂はそれらのエリートたちの一大葬祭センターだったのではないでしょうか。というのは私が住んでいる朝夷奈切通の麓に同じような中世墳墓葬祭場跡が存在しているからです。おそらく、異界へ通じる鎌倉の7つの切通のすべてに、共同墓地とそれに付属する葬式場があったに違いありません。

たとえば釈迦堂切通には以前ご紹介した「唐糸やぐら」と「日月やぐら」、そしてつい最近公開されたばかりの大町大やぐら群が横たわっています。また化粧坂切通には瓜ヶ谷やぐらと西瓜ヶ谷やぐら、巨福呂坂切通には浄光明寺やぐらと東林寺やぐら、そして亀ヶ谷切通には相馬師常やぐらがすぐ近くに存在しているので、私の想像もまんざらでたらめではないのではないでしょうか。

私は青いビニールシートに包まれたまんだら堂の旧跡を横目で眺めながら、私の残り少ない人生をこれらの切通周辺に必ず存在するはずの葬祭場捜索に捧げることを誓い、あわよくばそれらの墳墓の底深く埋葬されることを夢見たことでした。


♪カラスアゲハが無心に太刀洗川の水を吸うておる 茫洋

2009年6月 9日 (火)

「釈迦堂切通」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第189回

時々この空気がひんやりと行きかうおおきな洞を訪れると鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」を思い出します。あの映画は長く鎌倉に住んでいた鈴木清順によってまさにこの場所で撮影されたのですが、その鈴木氏の長谷の旧邸に私の家内が住んでいたのでなにか不思議な縁を感じるのです。

この映画の中で監督は、かつて映画を学んだ母校「鎌倉アカデミア」があった光明寺や稲村ケ崎にあった有島生馬邸でもロケを敢行していて、さながら鎌倉懐旧物語といってもよいかもしれません。

さて釈迦堂切通は釈迦堂口洞門とも呼ばれ、洞門のなかには壁を削った小さなやぐらがあり、五輪塔が祀られています。釈迦堂の名は鎌倉幕府の3代執権北条泰時が亡父義時の追善供養のためにこの谷戸に嘉禄元年1225年に釈迦堂を建立したことから名付けられたようです。しかしその釈迦堂は現存しておらず、その場所は定かではありません。しかしその本尊は東京目黒の大円寺に安置され国の重要文化財に指定されています。


以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。


♪なにゆえに発注なきや半年間紫陽花の青をじっと眺むる 茫洋
♪半年間発注のない狂おしささくらば散りてあじさいの咲く 

2009年6月 8日 (月)

「唐糸やぐら」と「日月やぐら」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第188回

釈迦堂の周辺には数多くのやぐらがあります。これらは釈迦堂口やぐら群と称されていますが、その代表的なものが「唐糸やぐら」です。

唐糸の逸話は「御伽草紙」「唐糸草子」で語られているお話です。唐糸は木曾義仲の家臣手塚太郎光盛の娘で琵琶と琴の名手でしたが、義仲の命で源頼朝の命を狙おうとして失敗、とらえられて幽閉されたのがこの唐糸やぐらだと伝えられています。

これを知った唐糸の娘万寿姫は信濃から鎌倉にやってきて、母と同じように頼朝につかえます。ある日鶴岡八幡宮の舞の踊り手に選ばれた今様の名手万寿姫は見事に舞い、頼朝から賞賛されて望みのものを訊かれます。そこで頼朝に事情を打ち明け、母唐糸の釈放を願った万寿姫の願いは聞き届けられ、母子は無事に故国に戻りましたとさ。めでたし、めでたし。

もうひとつの代表作は、その近くにある「日月やぐら」で、やぐらの内部の壁面に掘られた丸い穴を日輪に、二重に掘られた穴を月輪になぞらえた絶妙なネーミングがおしゃれです。丸い穴の上には天蓋が描かれ、下には蓮座が描かれているほかにはあまり例のない珍しいやぐらとして有名ですが、この一帯は横浜の不動産屋が開発目的で買い占めているために一般に開放されていないのが残念です。

以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。


♪隠れたってすぐ分かるぞヘイケボタル今宵も8匹見つけたり 茫洋

2009年6月 7日 (日)

「伝北条時政邸跡」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第187回

北条時政は政子の父で頼朝の義父。鎌倉幕府の実権を源氏から北条氏へと簒奪するために全知全能の限りを尽くした知恵者です。彼は頼朝の子頼家の乳母父となって権勢を振るった比企能員を自邸に呼び出して暗殺したと「吾妻鏡」に出ていますが、その現場がここ名越にある名越御館であるとされ、名越殿とも称されました。

昭和15年に八幡義生市がこの山麓の五〇〇坪くらいの平坦地を時政邸と断じて以来、そのように信じられており、昭和二八年にこの場所から中国宋代から元代にかけての青磁鉢三口が出土(現在は東京国立博物館に所蔵されて重要文化財に指定されています)したので、ますますその確信が強められたのですが、ところがどっこい、平成二〇年つまり昨二〇〇八年八月から一一月にかけて行われた発掘調査では、意外なことに北条時政の生きた時代にさかのぼる遺構や遺物がまったく発見されず、鎌倉時代後期から室町時代のものが出土したので、遺跡としての名称は「大町釈迦堂口遺跡」に改められることになったのです。

しかしこの付近にはやぐら四〇基があるので、当時ここはおそらく寺院であったと可能性が指摘されています。そんな由緒あるこの場所は、かなり長くあるドイツ人が住んでいたのですが、その後ロッキード事件で有名な国際興業の小佐野賢治氏の別荘となっていました。小佐野氏は東京地検と戦いながら、きっと剛腕北条時政に思いを致しつつこの地に籠っていたに違いありません。りました。

以上「鎌倉ガイド協会」の資料を参考に記しました。


♪腹黒き輩は腹黒き友を知る時政邸に鶯鳴きたり 茫洋

2009年6月 5日 (金)

続 拝啓鎌倉市長殿

バガテルop101
 
去る5月14日、私は鎌倉市長に次のような要望書を提出したところ、別記のような回答が届けられました。ある程度評価できるに内容もあったものの、納得がいかない点もあったので、再度市長への手紙を書きました。

○5月14日付要望

時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。

 さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。

 ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。

 そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白

○5月28日付回答

明るく住みよい鎌倉をつくるため、いつもあたたかいお力添えをいただき厚くお礼申し上げます。
 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。

 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。
 切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

                平成21年 5月28日 鎌倉市長 石渡德一


○6月5日付再要望

早速の回答ありがとうございました。朝夷奈切通に立て看板を設置して頂けるとのこと、大歓迎です。周辺の環境整備のためにおおいに役立つと思います。しかしながら今回頂戴したコメントのなかに一部理解・納得できない部分がありますので、再度質問と要望をさせていただきたいと存じます。

>鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。

要望その1
市がどこのハイキングコースを外部に紹介されてもそれは結構なのですが、実際には年間2000万人を超える観光客のおよそ半分が「市内全域のハイキング可能路」や7つの切通をどんどん歩いています。それらの人々の安全と安心のために自転車の交通を禁止してほしいというのが私の提案の趣旨です。いっきに即時全面禁止が難しいとしても、できる箇所から段階的に禁止すべきではないでしょうか。

>朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。

要望その2
私は毎日のように朝夷奈切通を散歩していますが、「三郎の滝」から横浜市との峠境に至る朝夷奈切通は、もっぱら観光客のハイキングコースであり、現在「生活道路」としては使用されていません。観光客以外で通行する人は(私が知る限り)存在しません。
「三郎の滝」の右側の十二所果樹園に至る道は風致地区であるにもかかわらずいくつかの土建業者や建築家があいかわらず不法占拠してモノ置き場にしたり農作業を行ったり、モノを燃やしたり、歩行者を顧みない危険な車両運転を繰り返していますが、まさかこの状態を「生活道路」と表現されているのではないでしょうね。
私は十二所果樹園へ安全な歩行を阻害し、周辺の事前環境破壊している彼らは一日も退去し、この際この道を「生活道路」であるという認識を改めて頂くとともに、2輪・4輪の交通も禁止するべきであると考えます。

>切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

要望その3
もとより理解するのにやぶさかではありません。しかし実際にその実情はどうなっているのかご存知ですか? 2輪及び4輪が我が物顔に走り回り、私が前回の投書で述べたような危険がどの切通やハイキングコースでどれくらいあるのか。まずはその実態を歩行者、観光客の身になって調査、観察、把握するべきではないでしょうか。しかるのちに即時全面禁止が無理だとしても可及的速やかに禁止や制限措置をとるべきではないでしょうか。

これらの切通は昔は生活道路でしたが、現在では豊かな自然に恵まれた歴史遺産であり国の指定史跡になっている箇所もたくさんあります。確かに一部が生活道路になっているケースもありますが、それは市や貴職が一部の住民の開発を是認して、自然と環境の破壊に手を貸した結果でもあります。
いっぽうでは市街化や生活道路化に積極的に加担しておいて、他方では環境保全やユネスコの世界遺産指定をめざすという貴殿の政策に大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。まずは地道な市民・観光客の足元の安全対策が肝要と考えます。

あまでうす茫洋敬白


♪当り前のことをとくとくと語る人なりき黒田恭一氏死す享年七十一 茫洋

2009年6月 1日 (月)

鎌倉文学館の特別展「有島三兄弟」を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語第186回

鎌倉文学館の「有島三兄弟 それぞれの青春」展をのぞいてきました。

ここはいつも平日はガラガラなのですが、この日は異常な混みようです。聞けば例の新型インフルエンザで遠出できなくなった関東一円の観光客がバラ園のあるこの穴場に殺到したとのこと。あきらめて帰ろうとしたのですが、前回の鎌倉の俳人展と同様結局は見ないままで会期末を迎えることをおそれて強行突破を図ったのでした。余談ながら上野の阿修羅展の馬鹿騒ぎも、これと同じ現象ではないかとふと思った次第です。

さて例によって一階と地下の二か所で飾られている展示物はそれほど多くはありません。有島武郎、生馬、里見弴の三兄弟にまつわる写真や作品や来歴を記したボードなどが要所要所に展示されていて、これらを半時間ほどざっと見物しました。

有島家の兄弟姉妹はたしか全部で五,六人いたはずですが、この三人はいずれも学習院に学び、明治四三年一九一〇年に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄たちと雑誌「白樺」に参加、小説、評論、詩、戯曲、絵画など芸術の造詣が深かったので、「有島芸術三兄弟」と呼ばれていました。

長男の武郎は札幌農学校の教師をやめて一念発起して「カインの末裔」や「生まれ出る悩み」(うまれ「でる」ではなく、「いづる」と読みます。村上某の「列島を出よ」も正しくはこれと同様に「いでよ」と読むべきで、「れっとうをでよ」は奇怪な日本語)で一躍流行作家になりました。彼の代表作「或る女」は北鎌倉の円覚寺で書かれています。若いみそらで中央公論の女性編集者と情死してしまったのは後の太宰と同様大変惜しいことをしましたが、正妻安子との間に名優森雅之が生まれたのはせめてもの慰めでしょうか。

 日本芸術院の保守的な伝統に異を唱え、二科会を興して独自の絵画の道を切り開いたのは次男の生馬。鎌倉市が所蔵している「病児」を見ると師匠の藤島武二や私淑したセザンヌの影響を感じ取ることができます。なお稲村ケ崎にあった彼の洋館は、現在長野県に移転されて有島生馬記念館になっているそうです。

 三男の里見弴は「多情仏心」「安城家の兄弟」「善心悪心」などで知られる作家で、小津安二郎と親しく、彼の依頼で映画化を前提に「彼岸花」を書き下ろしました。鎌倉市内のあちこちを転々としたことでも有名ですが、個人的には彼らよりも弴の「極楽とんぼ」に描かれた三男の隆三に最も興味を覚えます。

それから急いでお目当ての薔薇園に向かったのですが、残念ながらすこし旬を過ぎたところ。しかし腐りはじめた花もなかなか風情があってよいものです。


♪女と薔薇はすこうし腐りかけがよろし 某洋

2009年5月31日 (日)

西暦2009年茫洋皐月歌日記

♪ある晴れた日に 第58回


春夏秋冬人生宇宙循環す

サムライとおだてられしが異国で討ち死に

両足が伸びたるおたまを池に返す

今年また蛍光りしうれしさよ

春暗し男共皆縞縞背広

妻と子の鼾楽しも春の夜

左後ろ振りさけ見れば左肩根元に走るその痛さかな

いつのまにか遠い世界になりにけりエリック・ロメールの愛の昼下がり
 
よそながらマロニエの花咲きたり麗しきかなマロニエの花

栴檀の薄紫の花も咲きたり八幡参道二の鳥居の辺りに

岐れ道の病院の垣根に咲いている黄色い花の名前は何だろう

この頃は激減したときく雀らを見かけし朝は声をかけてやる

いろいろと死にたき理由はあるらめどこの朝ばかりは飛び込むなかれ

あんじぇらあきってなんじゃらほいあんたのおんがくよおわからん

ビーケーワン書店より鉄人28号に選ばれし恍惚と不安われにあり

ミスター・ロビンソンあなたもフライデーなしには生きられなかった

きらきらと輝く銀のうろこ見せ緑の森に消えし蛇

少女なれどすでに大人の憂いあり母を見上げる愛子さん

なにゆえに男どもみな着ておるのか電車にうごめく縞縞スーツ

男共皆縞縞背広通勤電車捕虜収容所の如し

革命の光は失せて二〇〇年いずこへ消えしや自由平等博愛

珍宝が小さきゆえに取りやめし高校時代の九州旅行

人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと豚どもいきむ

人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと鼻息荒し

善きことも悪しきこともみなつながれり豚から人へ人から人へ

太平洋の彼方から吹く豚の毒人への恨みいまこそ晴らさむ

戦争を構える理由は多々あれど止める理由はただ一つしかなし

てめえ死ねと豪速球で投げつけるチョーク当たりしはわが前歯なりき

連休の朝から楓を切っている隣の主婦を激しく憎む

青々と茂りし楓の木と枝を大刀洗川にそのまま捨てたり

朝比奈の峠の上の浦島草に小便掛けし憲法記念日

朝比奈の峠の上のウグイスが貯金貯金と鳴いていました

こんにちはと誰もが挨拶交わし合う朝比奈峠を行き来する人

虫は嫌いとおっしゃるけれど美枝子さんそれはアカタテハの幼虫ですよ

黄金の大判小判の隙間からまたしてもこぼれおちるほんたうの幸福


 ♪あじけなしバーンスタインのハイドンを聴く日曜日  茫洋

2009年5月29日 (金)

花咲地蔵と花咲爺

鎌倉ちょっと不思議な物語第185回

ここは大町の山から下りてきた一角で花を飾られた小さな地蔵尊があります。

鎌倉時代から室町中期まで、この谷に足利直冬が祖先の菩提を弔うために建立した慈恩寺がありました。その直冬の法号にちなんだ慈恩寺ですが、禅宗系の寺であるか否かはまだ識者の間で議論が続いているようですが、それはともかく、直冬が境内に四季折々の花々が絶えないようにしたためにこのあたりは現在も花ヶ谷と呼ばれています。

まことに風流なお寺もあったものです。ここは海浜にも近く、うっそうと茂った木々の間に7層の塔をのぞむ素晴らしい景観だったことでしょう。足利直冬は花咲爺でありました。

ところで直冬は足利尊氏の子ですが、側室の子であったために認知されず、僧になっていました。後に尊氏の弟、直義の養子になり、長門探題に任命されましたが、実父の尊氏と対立して挙兵し、その後は九州に逃れて南朝側の武将として室町幕府に抵抗し、嘉慶元年1387年に亡くなったと伝えられていますが詳細は詳らかではありません。

以上、おなじみの「鎌倉廃寺事典」と鎌倉ガイド協会の資料からの引用でお茶を濁しました。


春夏秋冬人生宇宙循環す 茫洋

2009年5月28日 (木)

「大切岸」を望む

鎌倉ちょっと不思議な物語第184回

法性寺のすぐ近くには逗子側に屏風のように立ちはだかっている垂直に削られた崖があり、「おおきりぎし」と呼ばれています。この崖は鎌倉の覇権を確立した北条氏が三浦半島を拠点とする三浦市の侵入を防ぐ目的で築かれた防御施設であると伝えられています。

現在ではおよそ800mほどしか残っていませんが、北東部はわたしの住んでいるところから、西南方面は住吉城跡まで続いていたといわれています。切岸と平場は2から3段のひな壇状に造られているところもあります。

崖の高さは3から5mで場所によっては10mの絶壁を構えているところもあります。今は個人の所有地(畑)となりましたが、昔の面影は十分に残っています。また切岸上の尾根道は鎌倉城外郭防衛道で鎌倉入口守備隊への物資補給路であったとか浄妙寺に通じる道であったとかいろいろいわれているようです。

ただこの大切岸は本当に防衛遺構なのかというと、それを裏ずける資料はなにもありません。防衛遺構説以前は海蝕による崖岩が隆起したものと唱えられ、現在では石切り場の跡の可能性があるとも説かれ、要するになにがなにやらよく分からないという鎌倉ちょっと不思議な場所なのです。(鎌倉ガイド協会の資料から引用)

♪サムライとおだてられしが異国で討ち死に 茫洋


2009年5月27日 (水)

法性寺を訪ねて


鎌倉ちょっと不思議な物語第183回

このお寺はじつは私の家から直線距離にすればそれほど遠くありません。鎌倉逗子ハイランドの坂道を下って、横須賀線の線路にぶつかった右側に馬頭観音があり、そこが入口になっているのです。ところがこの日は海側からではなく、山側の名越切通から尾根伝いに接近したものでから、すっかり土地勘が狂ってしまいました。

以下例によって鎌倉ガイド協会の資料をほぼ丸写しいたしましょう。猿畠山法性寺はなぜだか猿の字が冠されていますが、それは前にも触れましたように、文応元年1260年、松葉ヶ谷の法難の際に、日蓮さんが名越の尾根から尾根へと逃げられたのですが、そのとき山頂にある山王権現の使いとも言われている3匹の白猿が、上人をこの法性寺の祖師堂の横にある岩窟に案内したので、日蓮さんはしばらくこの岩屋で難を避けていたと伝えられています。そして現在その場所には朗慶作と伝えられる五輪塔が安置されているのです。

後日日蓮は、これも山王権現の加護のおかげであると言ってこの地に一寺を建立して恩に報いよと弟子の日朗に命じられ、その弟子の朗慶がこの法性寺の開基となりました。

ところで日朗は晩年東京の池上本門寺に隠棲していましたが、入寂の際に幼少の砌に遊んだ懐かしい猿畠山に戻りたいと遺言したので、朗慶の手で安国論寺で荼毘に付されたのち、法性寺の山頂の四面堂に納骨されました。

現在ではこの一帯に猿は見かけませんが、鎌倉時代にはたくさん棲息していたのでしょう。

♪左後ろ振りさけ見れば左肩根元に走る痛さかな 茫洋

2009年5月21日 (木)

緑薫る「安国論寺」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第181回

名越四つ角交差点を左に入ると松葉ヶ谷。その突き当りに日蓮が安房から鎌倉に入って最初に庵をむすんだ「安国論寺」があります。彼は53歳の時に身延山に移りますが、およそ20年をこの地ですごし、その跡がこの寺になりました。

奈良旧教や他の鎌倉新仏教、とりわけ法然・親鸞の浄土宗を非難攻撃した「立正安国論」は禅宗を保護する幕府の前執権北条時頼の怒りを買いましたが、権力者の宗教政策を真正面から批判した彼が39歳の時の主著は、このお寺の「御法窟」(日蓮岩屋)で書かれました。「法華経を大切にして国難を切りぬけよ」という決死の建白書でした。

「立正安国論」を読んだ浄土宗信者は激高してこの庵を襲いました。世に名高い「松葉ヶ谷の法難」です。危険が迫った日蓮を助けたのは1匹の白猿でした。猿はこのお寺の裏山の奥にある「南面窟」という岩屋を経て現在法性寺が建っている猿畑山に導いたと伝えられています。

日蓮は生涯に四たび法難に遭遇しています。けれども実際に日蓮が最初の法難に遭ったのはここ「安国論寺」であったのか、それとも近所の長勝寺であったのか、はたまた比企が谷の妙本寺であったのかについては諸説紛々としていて、いまなお決着がついていないようです。

「安国論寺」は創建が建長五年一二五三年ですが、それからこの「安国論寺」には増上寺から移された石灯籠、日蓮の「至高第一」と称された直弟子の日朗上人の荼毘所や日連の桜の木の杖が根付いたといわれる妙法桜、さらに土光経団連会長が私財を投じて造られた尾根の上の鐘楼もあって見逃すわけにはいきません。
(「鎌倉の寺」小事典、鎌倉ガイド協会資料を参考にしました)

♪栴檀の薄紫の花も咲きたり八幡参道二の鳥居の辺りに 茫洋

2009年5月20日 (水)

ユニクロの新宿西口店と広告

茫洋広告戯評第3回&勝手に建築観光35回

鳴り物入りでオープンした新宿西口のメガショップですが、なんせ元は家電のサクラヤがあった場所。構造はそのままに真っ白なペイントを施し、かっこよさをきどってみせたものの、入口のサイコロブロックのがさつさといい、各フロアの狭さといい、どうもおちつかない空間設営です。

誰が設計を担当したのか知りませんが、これで世界のファストブランドと対抗しようとはおこがましい。フラッグショップストアなら旗艦店らしい格調の高さが必要ではないでしょうか。

しかし「わたしは1枚で行く」という栗山千明のブラトップのテレビCMやPORONOWのコピーによるポロシャツ、佐藤可士和のアートディレクションによる和洋のロゴタイプやTシャツキャンペーンなどのクリエイティブの水準は高い。

あれほど安っぽいカジュアルウエアを音楽やデザインでそれなりにおしゃれに見えるようにごまかしている技術がすごいと思います。もちろんその大本には、ユニクロの素材に最新の科学技術を取りいれた商品企画と販売、プロモーションの三位一体が厳然と存在していて、それが大不況下の奇跡の1人勝ちを生み出しているわけですが。


岐れ道の病院の垣根に咲いている黄色い花の名前は何だろう 茫洋

2009年5月18日 (月)

上野榮子訳「源氏物語第八巻」を読んで

照る日曇る日第258回


私のように平安時代の日本語に不案内な読者にとっては、紫式部の自筆原稿を自力で読みこなすことなど到底できません。そこでやむなく翻訳書に手を出すことになるわけですが、これが訳者によって読後感がまるで異なるので、いったいどれが本当の紫式部のコンテンツにもっとも近いのかとおおいに面喰います。

しかしそもそも翻訳とは、翻訳者が原作者になりかわって作品を解釈する行為です。いわばイタコが原作者に憑依するような過程をたどってその言霊を私たちに表白するわけですから、谷崎にせよ与謝野にせよ、その内容が違ってくるのは当然といえましょう。
私たちはイタコたちの憑依や言霊のバリエーションを楽しむことが許されるわけです。

ところでそのイタコにも理数系のそれと文系のそれがあって、文法学者などが手掛けた翻訳は前者、文学者などによる翻訳は後者がおおいようです。前者は主語と述語、修飾句などが明確に指示されているかわりに、日本語としての表現が未熟で情緒に欠けるという短所があり、後者はその反対であることがおおく、いずれにしても帯に短し襷に長い隔靴掻痒、皮肉の嘆が消えることはありませんでした。

谷崎なども語学に自信がなかったので国語学者山田孝雄の校閲を仰ぎながらはじめて彼の源氏物語を世におくることができたのですが、通読していてときおり「主語=主体」があいまいになるくだりがあります。しかしそこは大谷崎一流の清濁併せ呑む文体で情趣豊かに切り抜けるのです。

このような行き方は、フランスの詩人ランボーの詩を大胆不敵にも昭和の初期に翻訳した中原中也や小林秀雄にも見られる「文学的な強行翻訳突破法」といえましょう。誤訳だらけの同じ詩句をたとえば宇佐美斉、鈴村和政の手になるものと読み比べてみると到底同じランボーとは思えないほどの違いです。(ただしどちらが詩人の詩魂に近いかはまた別の問題です)

前置きが長くなりましたが、上野榮子さんによる源氏の現代日本語への翻訳は、この理数系と文系のバランスがとてもうまく取れた点がなによりのお手柄ではないでしょうか。最終巻の第8巻では悲運のヒロイン浮舟が薫と匂宮の板挟みとなって苦しんだ挙句、宇治川に身を投じるという緊迫した場面が描かれています。

しかし「手習」の帖をつらつら眺めていても、彼女が自らの意志で投身、入水したという記述はどこにも現れず、この事件の真相が宇治三姉妹の長女(総角、大君とも)を血祭りにあげた物怪の殺意によるものであることがこれほど明確に印象付けられる翻訳書はなかったのではないでしょうか。

本文の中で浮舟が自分で述べているように、入水を実行できずに呆然としているところをまるで匂宮のようなイケメンが突然やってきて体を抱き上げられ、そこで意識を失ってしまったわけですから、結局「入水」は実行されなかったのです。

さらに調子に乗って書いてしまいましょうか。どの翻訳においても、薫が浮舟を発見して再び恋の炎を焦がすところで突然全巻の幕を閉じてしまうわけなのですが、本書ほど「宇治一〇帖」が“未完の傑作”であることを雄弁に物語っている翻訳本はないとも言えるでしょう。
紫式部はこの続きを書こうとして書けずに世を去ったに違いない。と本書を読めば誰しも確信するはずです。

♪この頃は激減したときく雀らを見かけし朝は声をかけてやる 茫洋


2009年5月15日 (金)

東勝寺橋を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第180回

東勝寺は太平記にも記されているように北条政権が最後の日を迎えたところです。

稲村ケ崎、稲瀬川方面からアサリを押しつぶして突入した新田義貞の軍勢が、最後の執権北条高時の軍勢千余騎をここ葛西が谷に追い詰め、暗い谷戸の奥の奥にある「腹切りやぐら」で武者全員が自害したことで知られていますが、東勝寺橋はその谷戸の麓を流れる滑川にかかっている瀟洒な石橋です。

ちょうどこの近くに亡くなった澁澤龍彦が住んでいて、滑川でウナギを獲っているのを見物していると、この奥に住んでいた立原正秋がベレー帽をかぶり自転車に乗ってこの橋の上を通り過ぎたというエッセイを書いており、神西清にも「腹切りやぐら」を訪ねるエッセイがあるそうです。(鎌倉文学館資料より)

また太平記によれば鎌倉時代に青砥左衛門賢政(藤綱)という武士がおり、夜この東勝寺橋を渡ろうとして銭十文を滑川に落としてしまった。そこで近くの町屋に従僕を走らせて銭五十文で松明を十把買わせて川底を捜索し、とうとうその一〇銭を見つけ出したところ、この話を聞いた人々が「一〇銭を捜そうと五〇文で松明を買うとは大損ではないか」と嘲った。すると青砥左衛門少しも騒がず、「もし私が一〇銭をそのままにすれば永久に役に立たない死銭になるだろう。しかし松明を買った五〇銭は商人のものになってずっと流通する。一〇銭と五〇銭合わせて六0銭がなくならずにずっと流通することは大きな利益ではないか」と反論したので、悪口を言った人々も深く感じ入ったといいます。個人的小利ではなく社会的大利を重んじるというこの時代には珍しい重商主義的な視点を持っていた武士だったわけですね。

青砥左衛門は歌舞伎十八番の「白波五人男」にも登場して彼らを滑川にかかった土橋の上で捕まえるのですが、青砥左衛門邸はこの東勝寺橋を流れる滑川のかなり上流にあたる浄明寺の青砥橋付近にあったと伝えられています。ちなみに私の住まいの近所です。

ちなみついでに、この近くで主婦が運営している「青砥」は、まずい高いで全国的に有名な鎌倉の和洋飲食店の中では珍しく、おいしくて値段も手頃な和食の家庭料理屋さんなので、誰にも知らせず内緒にしておきたいと思います。

♪ビーケーワン書店より鉄人28号に選ばれし恍惚と不安われにあり 茫洋

2009年5月14日 (木)

拝啓 鎌倉市長殿

バガテルop99&鎌倉ちょっと不思議な物語第179回


時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。

さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。

ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。

そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白
 
♪きらきらと輝く銀のうろこ見せ緑の森に消えし蛇 茫洋

2009年5月13日 (水)

ミシェル・トゥルニエ著「フライデーあるいは太平洋の冥界」を読んで

照る日曇る日第255回

デフォーの1719年「ロビンソン・クルーソー」は後続の1726年の「ガリヴァ旅行記」に大きな影響を与えた18世紀の冒険物語ですが、この有名な海洋漂流譚を今度は1967年になってフランスの作家ミシェル・トゥルニエが換骨奪胎してまったく新しい物語、冒険譚でありながら人間の存在の根底を問い、生と性と聖を真摯に探求する哲学の書として書き直しました。それが本書です。

同じ空想海洋小説には違いないのですが、読比べると原作の「ロビンソン・クルーソー」とはずいぶん違います。「ロビンソン・クルーソー」ではあくまで主人公はロビンソン・クルーソーですが、この本では途中から脇役のフライデーがその野性的な魅力を十二分に発揮して、むしろ主人公を食ってしまう。

とりわけ無人島エスペランザに棲息する凶暴な野生の山羊の王様と死に物狂いで戦って勝利をおさめ、その皮を剥いで大凧にして何庸の南洋の青空に飛ばしたり、妙なる音楽を奏でる楽器に変身させてしまうあたりでは物語の比重が主客転倒して、このインディオと黒人の混血の土俗的な存在感は、灼熱の太陽の直下で異様な光彩を放ちます。

それから原作ではロビンソンもフライデーも無事に本国へ帰国するのですが、この小説ではせっかく28年と2カ月と19日ぶりに救助船に発見されたというのに、ロビンソンはこの船でいじめられていた少年ともども無人島にとんぼ返りをしてしまうのです。

いっぽうフライデーはというと、主人のロビンソンを裏切って帰国する船に戻ってしまう。英国に戻ってもフランス革命目前の母国では無人島で自由に生きるエスペランザ(希望)などあり得ないと考えたロビンソンは、無人島に戻って少年の名をフアイデーならぬサーズディ(木曜日)と名付けたところで物語は終わります。

「ロビンソンはほとんど苦しいばかりの歓喜に満ちて太陽の恍惚と向かい合っていた。彼を押し包む光が前日と前夜の致命的な汚れを彼から洗い落としていた。焔の剣が彼の身内に入って、彼の全存在をつらぬいていた。」

ミシェル・トゥルニエの筆は、冒頭の難破からエスペランザ島への漂着、無人島の自然描写や野蛮人の侵入、開拓者ロビンソンの生活や人生観の移り変わりなどどこをとっても細部が比類なく充実しており、きわめて繊細で知的なもので、まるで突然私たちがロビンソンと同じようにエスペランザの大自然の真っただ中に投げ出されたような、おそろしく孤独で、それでいて自由な気持ちをありありと体感させてくれます。


♪ミスター・ロビンソンあなたもフライデーなしには生きられなかった 茫洋


2009年5月11日 (月)

09年鎌倉市議会議員選挙始末記


バガテルop98&鎌倉ちょっと不思議な物語第178回

先月26日に行われた鎌倉市議選の結果、新しい顔ぶれが決まりました。定数28名のところ立候補したのは36名でしたが当選者は28名。その内訳は現職18、新顔10名。党派別は自民1名、民主4名、公明3名、共産4名、神奈川ネットワーク運動4名、無所属12名ということで、やはり最大派閥は無所蔵でした。

最下位で当選した人の得票が1661票、当選率は77.77%というかなり高い数字になり、当選すれば四年間はかなり高額の俸給が出ますから、「それじゃあ俺もちょっくら出てみようかな」という一旗組が今回はかなり多かったのではないでしょうか。

次点で落選されたベテランのS氏は、かねてから私たち障ぐあい者を支援してきた方でしたので残念でしたが、もう一人軽井沢町議時代に西武堤資本によるゴルフ場建設を阻止した土方歳三の子孫と称する人物が落選したのも、ちょっと残念でした。民主党は五人目の有力な候補者を送り出したのですが、たった554票で涙をのみました。やはり小澤問題が黒い影を引いたのでしょう。

残念ついでに、私の町内でも無所属の新人が立候補しましたがわずか189票しか獲得できず惨敗でした。町内会長さんが「もっと早く挨拶に来ねえんだもん。ここだけで200所帯あるんだ」と豪語していましたが、そういう意識と発言自体がこの町の旧態依然たる政治意識を雄弁に物語っています。

前回トップ当選のご自身が障ぐあい者の方は今回は14位に後退。4750票を獲得してトップで当選した民社現職の50歳の女性は、当選の翌日白のりりしいパンツスーツ姿で鎌倉駅前に立って当選御礼の挨拶をしていましたが、そういうことをしていたのは彼女だけでした。

いずれにせよ現在人口173502名、72173世帯を数える鎌倉市民のために、私利私欲をかなぐり捨てて最大最高の貢献を果たしてほしいものです。


♪てめえ死ねと豪速球で投げつけるチョーク当たりしはわが前歯なりき 茫洋

2009年5月10日 (日)

ビリー・ワイルダーの「昼下がりの情事」を見る

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 3

日本の男のオードリーは大嫌いですが、ベルギーで生まれた英国人女性のオードリーは大好きで、時々その映画を楽しんでいます。

ヘプバーンの代表作はなんといってもウイリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」ですが、名匠ビリー・ワイルダーによる「昼下がりの情事」も感動的なクライマックスを楽しむことができます。

いま青春の最初の花を咲かせようとしているヒロインは、パリ・コンセルバトワールでチエロを学ぶ音楽少女です。いつもチエロを持っているオードリーは、さしずめディアナ・タービンのパリ版というところか。その前に突如現れ出でたるはいままさに中年の盛りを過ぎたロマンスグレーの女たらしゲーリー・クーパー。パリはオテルリッツの4号室で貸し切りのカルテットが奏でる甘い「魅惑のワルツ」の音楽に合わせて謎のヴェールの女と踊る水も滴る色男です。
ところがこの海千山千のプレーボーイ、ほんの一夜の慰みに軽く遊んで捨て去るはずが、うぶな少女の下手な芝居にひっかかって本気で恋してしまう。もとより女は初めての恋に無我夢中。危険な火遊びの末路を案じた父親(探偵です)の警告に従って、男は断然リヨン駅で別れようとするのです。

少女はつぶらな瞳に大粒の涙を流しながら愛する男を追いかける。煙を吐いて加速する列車。あなたがいなくなっても男なんて11人もいるのよと強がりを言いながら懸命に追う女。タラップの上で激しく迷ういながらその姿をじっと見つめる長身の男。

そして絶望と悲しみに引き裂かれながらも一途に男を追わずにはいられない純情可憐な小鹿のバンビのクローズアップ! こんな姿を見せられて鬼神も泣かずにおらりょうか。

あわやプラットホームが尽きようとする刹那、その時遅く、その時早く、男は女を救いあげて汽車の中に引っ張り上げる。ここで引っ張り上げなきゃ、男ではありません。また引っ張り上げなきゃ、映画ではない。

そこで男ははじめて「アリアーヌ!」と女の名前を呼びながら接吻をするのですが、キャメラは彼女の大きな右の眼が、絶望から驚き、次いで信じられない歓喜へと変わりゆくありさまをじっと映し出すのです。

するとこれはまたどうしたことでしょう。いつの間に現れたのか、あのお馴染みの四重奏団が「魅惑のワルツ」を奏で、これまたなぜか登場した父親が、幸福な娘の姿を見届けて笑っている。
とうとう結婚することになるカップルを乗せて、汽車は出てゆく、煙は残る。めでたし、めでたし。あまりといえばあんまりなご都合主義なのですが、これがワイルダーの映画さばきなのです。

さらに私たちはこの映画で1961年に60歳で亡くなったこの名優の早すぎた晩年の、ちょっとやつがれた艶な風情をたっぷり味わうことがきます。上り坂の人と下り坂の人、若ものと老人、これから花の盛りを迎える女とまもなく悲惨な老年を迎える男。この2人を待っているのは、いかなる運命でしょうか。そんなことは百も承知のワイルダーは、この大きな年の差を乗り超えた奇跡の愛が成就したパリの昼下がりを見事に創造したのです。

最後にこの映画の唯一の欠点を強いてあげるなら、楽劇「トリスタンのイゾルデ」の上演中に案内嬢に先導されてクーパーと美女が入場してきて劇場の最前列の座席につくシーンでしょう。これは映画ならともかく、実際には絶対に許されないことです。


♪こんにちはと誰もが挨拶交わし合う朝比奈峠を行き来する人 茫洋

2009年5月 1日 (金)

「平安のハムレット」と「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは?

紫式部著・アーサー・ウェイリー版「源氏物語4」を読んで

照る日曇る日第252回


アーサー・ウェイリーがもっとも高く評価し偏愛した源氏物語が、本巻に収められた「夢の浮橋」を含むいわゆる宇治十帖でした。

ここで活躍するヒーローは、源氏の息子、薫(しかしてその実体は、源氏の目を盗んで女三の宮と通じた柏木の息子)と匂(天皇と皇后の三男)、そしてヒロインは、八の宮の遺児である美人の三姉妹、総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟です。

とかく男はこの世では惚れた女には惚れられず、それほど好きでもない女性からは逆に愛を打ち明けられておおいに戸惑ったりいたします。薫と総角の場合は前者の典型で、男は熱愛しているものの、女の方では「いい人」カテゴリーに入れており、それでも再三再四のチャンスに強引に女をモノにすればいいのですが、草食系男子の薫にはそういう典型的な肉食系男子であるライバルの匂のような乱暴なことができません。爬虫類脳の指令が男根に直結している匂と違って、薫の内部では、大脳前頭葉からの突撃命令を下半身が拒否することが往々にしてあるのです。

その原因は彼の生誕の背後にひそむほの暗いコンプレックスであり、生存の深奥部に突き刺さったトラウマに基づくものでしょうが、このことが彼の生来身に備わったペシミズムとニヒリズムと遁世願望に根強く繋がっているのです。

生きたい。欲しい。しかし欲望できない。征服できない。このもどかしいジレンマを、この無防備なニッチを、ペニスむき出しの現世的人間、匂が激しく衝き、まず小芹が、ついで浮舟がその血祭りにあげられます。美しい想い人をキツネに奪われたカラスは無念をかみしめ己の浅はかさを厳しく責めながらますます自己滅却の衝動に駆られていくのです。

紫式部の時代からおよそ一〇〇〇年後の今も、宇治川の流れは思いがけず激しいのですが、宿命の恋のライバルに引き裂かれてこの激流に身を投じたはずの浮舟が、冥界のヴェールの底から蘇る日、薫と匂は果たしてどういう行動に出るのでしょうか? 「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは何なのでしょうか? 生きながら死せる存在であるわれらが「平安のハムレット」に、はたして起死回生の劇的な瞬間は訪れるのでしょうか?

あらんかぎりの幻想と夢と希望を世界に振り撒きながら、この人類史上最高最大の物語は、大団円に向かってひそやかに助走を開始したところで、まるでそれが作家の当初の計画であったかのように、不意に幕を閉じるのです。

春暗し男共皆縞縞背広 茫洋

なにゆえに男どもみな着ておるのか電車にうごめく縞縞スーツ 

男共皆縞縞背広通勤電車捕虜収容所の如し

2009年4月29日 (水)

「1年丸ごと夏目漱石」カレンダー

バガテルop96

今日で4月が終わる。4月が終わるととうぜん5月が来る。すると4月のカレンダーとは永久にお別れとなる。それが私にはすこうし寂しいのである。

2000年の1月にサラリーマンを辞めたので私の家ではカレンダーを手に入れるのに苦労することになった。会社員をやっていると取引先からかなりの数のカレンダーを頂ける。また当時勤めていた会社でも自社製のものを作っていたから、そんな苦労は知らずにすんだ。いわば選り取り見取りで好ましいデザインのものを自宅に持ち帰って数か所にかけていた。

ところがそういう既得権?を失ってしまうと、残るのは出入りのプロパンガス屋さんとか息子が通っている授産施設の特製?カレンダー(これは何枚も購買している)くらいしか当てがなくなり、トイレなどは失礼ながら鶴岡八幡宮の年間カレンダーで我慢することに相なってしまい、そうかこれまではずいぶんバブリーな暮らしをエンジョイしておったのだなあ、とある種の感慨を懐きつついたずらに長かった俸給生活を振り返ったことだった。

そうこうするうちにわが「茫洋亭」(陋屋のことです)のあちこちが風雨と経年変化で痛みはじめ、やむなく近所のリフォーム会社に改修工事をしてもらったのだが、そこの店長さんから去年の暮に「偉人の筆跡カレンダー」という大型の豪華版を頂戴したのである。

2008年版のそれは「美を創り、拓いた偉人」というテーマのもとに、1月千利休、2月マリー・アントワネット、3月ウイリアム・ブレーク、4月オディロン・ルドン、5月堀辰雄、8月伊藤若冲、9月ジョルジュ・サンド、11月国吉康雄、12月佐伯祐三等々の著名人が実際に書いた数字だけで当月のカレンダーが構成されているという代物で、わたくしの味にいたく叶ったのであった。 

そしてその翌年、つまり本年用に頂戴したのが、なんと「1年丸ごと夏目漱石」カレンダーであった。1年12枚の紙片はすべて別々の和洋の数字でデザインされており、上部の中央には漱石山房の原稿用紙やロンドン留学中に正岡子規に送った絵葉書などがさりげなく添えてある。いわば1年365日漱石と共に過ごそうという趣向がことのほか気に入って、曜日を確認するという本来の目的を離れて暇さえあればこのカランドリエに眺め入っているいつという次第。

聞くところによるとなんでもこの「偉人の筆跡カレンダー」シリーズは1988年の「世界の建築家・芸術家」編からはじまって翌年の「世界の音楽家」編、翌々年の「日本の文学者」編など通算22年の長い歴史を閲しており、毎年の全国カレンダー展で何度も栄えある金賞を獲得しているという。これまでいくつかの素敵なカレンダーに巡りあったが、個人的にはこのMホーム社のものがいちばん気に入っている。

♪フィリピン210円エクアドル350円台湾420円さあどれを買おうか3つのバナナ

茫洋

2009年4月28日 (火)

西御門の「旧里見弴邸」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第176回&勝手に建築観光34回

鎌倉の西御門は幕府の西側の門があった場所ですが、かつてこの近辺には作家の江藤淳や外交官の加瀬俊一、そして白樺派の作家である里見弴などが住んでいました。加瀬邸は氏が最近亡くなられて間もないというのに跡形もなく取り壊されて別の安直な住宅になってしまいましたが、旧里見邸はいまなお「石川邸・西御門サローネ」として健在です。

里見弴は長兄が作家の有島武郎、次兄が画家の有島生馬で、この3人を3馬鹿トリオではなく団子三兄弟でもなく、なんと「有島芸術三兄弟」と呼びならわしております。

弴の恩師は作家の泉鏡花ですが、彼は恩師の文学世界とはあまり関係がなさそうな「善心悪心」、「多情佛心」、「極楽とんぼ」などの作品を書き、その業績はもてない男、小谷野敦氏の伝記などによって近年急速に再評価されています。

 永井龍男が随筆「里見さんの家」で書いているとおり、この建物は大正15年に作家がみずから設計しました。里見はまったく素人のくせに建築趣味があって当時完成したばかりのライトの帝国ホテルなどを熱心に研究したそうですが、この洋館のロビーや暖炉のある応接間やアールデコ風の装飾などになんとなくその影響が感じられます。

洋館の隣には彼が知り合いの大工に命じて造らせた仕事場兼茶室として使った茅葺の和室もありますが、これなら素人でもできそうです。しかし和と洋の良さを生かしきったこの快適な生活空間を建築のけの字も知らないアマチュアが設計してしまったとは驚きです。

里見弴は鎌倉のあちこちを激しく転居しています。最近取り壊されてじつにつまらない普通の家になってしまったかつての扇が谷の自邸とそのエントランスをなしていた見事な日本庭園も、いつまでもそこに居たいと感じさせる日本画のような情趣にあふれていました。

また彼は最近まで鎌倉にあり、現在では遠く長野県に移築された次兄有島生馬の住居、それから裏駅のいまスターバックスがある場所にあった漫画家横山隆一のアトリエと住居も設計したそうですが、その話を聞いた私は、横山隆一の「おとぎプロ」の入り口にあった大きな褐色のモニュメントを思い出しました。もしかするとあれも弴の作品だったのでしょうか。

♪毎朝風呂を洗っていてもすぐに汚れる人間の垢生存の滓  茫洋

2009年4月23日 (木)

こんにちは、ベンジャミン

バガテルop94&鎌倉ちょっと不思議な物語第176回
 
雨上がりの午後、散歩でもしようかと玄関を出た私は思わぬ光景にびっくり仰天しました。鉢植えのパンジーになんとアオバセセリが蜜を吸いにきているのです。

アオバセセリを漢字で書けば青羽挵蝶、学名choaspes benjamini。分布は青森県から八重山諸島。九州以北では年2回(5~6月、7~8月)の発生。飛び方は速く、雄は林間の空地などで長時間同じコースを飛ぶ。幼虫の食卓はアワブキ科のアワブキ、ヤマビワなど。越冬態は蛹。
などと図鑑に出ています。

この近所にはヤマビワはありませんが、アワブキならたしかどこかで見たことがあります。、燃やすと切り口から泡が出るというあの樹木の葉を食べながら育った幼虫が、この暖かさにうかうかと羽化してしまったのでしょうか。だからこんなに小さいのかしら。

私がこれまでにたった2度ほど見掛けたアオバセセリは開張45~50センチでかなり大型でしたが、これは30センチくらいの小型です。しかし、よくも私の家に迷い込んでくれたこと。同じ木を食草とするシミナガシやカアオアイを食べるギフチョウともどももう生きている間は二度とお目にかかることはないだろうと思っていただけに、私はほんとうにうれしくなりました。

最近は仕事に恵まれず、いろいろ行く末について思い悩むことが多く、毎日鬱々と朝比奈峠を猫背で歩いていた私は、これこそはさだめし天からのよき便りであろう、と久しぶりに痛む背中をますぐに伸ばして4月の青い空を仰いだことでした。

思えば今を去る01年の夏に、私はなんとなく、ほんとうに何心なくこんな俳句を詠んだことがありますが、今日はじめてアオバセセリの学名を知って、私は思わず、「ああ、僕は長い間きみに会いたかったんだ」と思ったことでした。

♪ベンジャミンてふ名の友を持ちたきこの夕べ 茫洋

2009年4月22日 (水)

既製服の台頭


 
ふぁっちょん幻論 第48回

昭和45年1970年ごろに米国からもたらされた、「人間工学に基づいたスーツの仕立て技術」。これがオーダーメイドを駆逐し既製服の時代を切りひらきました。

例えば故石津謙介氏が設立したVANのアイビールックは、米国式工業生産システムが生んだ胴をシェープしないボクシー(箱型)な直線的シルエットが特徴でした。そして当時はVAN、JUN、ACEなどの既製服ブランドが相次いでヤング世代のおしゃれ心をしっかりとつかみ、これが世代を超えた「注文服離れ」を惹き起こしたのです。

その一方では、前回にも述べたように欧州の洗練された高級既製服(プレタポルテスーツ)が日本に進出し、例えばピエール・カルダンのエッフェル塔のようなパゴットラインなる最新モードも登場。その他テッド・ラピドス、サンローラン、レノマなどのフランス製のメンズモードも躍進を遂げていました。

しかし昭和48年1973年の石油ショックがオーダーメイド業界にとどめを刺しました。その影響によって最盛期には10万人を数えたテーラー人口が、その4年後にはたった1万人に激減してしまったのです。

これをデータで見ると、わが国の1969年の既製服化率はおよそ45%でしたが、当時欧米のそれは95%の多きに達しており、日本のみならずメンズスーツのプレタポルテ化現象は全世界の先進国に及んでいたということが分かります。

ちなみに現在の大手服飾メーカーの生産仕様は、90年代に採用されたドイツ縫製メーカーの「M仕様」が主流であり、ここにも依然として欧米モデルに依拠するわが国メーカーのお得意パターンがひそかに生き延びていることが分かります。

♪かつてわが勤めし会社よ強欲の投資ファンドの餌食となりたり 茫洋


2009年4月20日 (月)

60年代のスーツ近代化 

ふぁっちょん幻論 第47回

1960年代になると西欧から優れたテーラーたちが続々わが国にやってきます。また昭和30年1964年の東京オリンピック開催時には、国際注文服業者連盟国際大会も併せて開催され、翌年から若手優秀者がロンドンのサヴィル・ロウでの研修に派遣されるようになりました。

昭和36年1961年にはパリの仕立て技術者A・クリスチャーニ、昭和39年には伊ローマからアンジェロ・リトリコ(JFK、フルシチョフ、マストロヤンニの服)、英ロンドンマスターズテーラー協会理事長のパッカー、副理事長のスタンバレー(サヴィル・ロウのテーラー「キルガー・フレンチ&スタンバレー」)などの各氏が来日、欧州仕立ての真髄を披露しました。

彼らは「日本のスーツ職人は手先は器用だが、胸のドレープの表情に乏しい、スーツ全体のボリュームがなく扁平すぎる。プロポーションが悪く、アイロンが軽すぎる」などの指摘を行ない技術の改善を指導したために、スーツの仕立て技術が大きく向上しました。

こうした技術革新の波を受けて、74年には三宅一生らの「TD6」が父上がり、72年には「ブリリアント6」が結成され、上原宗市、細野信、中右茂三郎、石川栄治、今井文治などが第1回コレクションを発表。第2回からは池田茂樹、五十嵐九十九、隅谷譲次、松田法明たちも参加し、73年には上原宗市、細野信がイタリア・サンレモのテーラーデザインコンテストで1位を受賞します。しかしこうしたオーダーメードの団体活動は、既製服業界の追い上げと職人賃金の高騰などによって、昭和60年1985年には終了してしまいます。

♪鰤頭とろとろ煮られ花曇り 茫洋

2009年4月19日 (日)

「吾妻鏡」現代語訳 5征夷大将軍を読んで

照る日曇る日第251回&鎌倉ちょっと不思議な物語第175回

建久元年1190年から同三年までは、源頼朝の絶頂期ではなかっただろうか。

平家一門、弟の義経に続いて奥州平泉の藤原氏を滅亡させたこの関東の武人は、相州鎌倉を拠点に都の後白河法皇との平和共存体制のもとで武家政権を確立し、関東以北を中心とした東国支配を貫徹していく。その後の日本国を象徴する権力の東西二重構造の出現である。

 この三年間にどんなことが起こっただろう。鶴岡八幡宮は、大火の後で現在の地に再建され、奥州中尊寺の二階大堂を模して造営された永福寺も山紫水明の地に成り、すでに完成していた父義朝を弔う勝長寿院と合わせて豪華三点セットの七堂伽藍が完成するのである。(余談ながら私の家の近所に大慈寺が建立されて四点セットが完成するのは頼朝の死後のことになる)

その永福寺は頼朝自らが建設場所を選び、恐らくは手ずから図面を描き、何度も現地に足を運んで北条義時や畠山重忠に巨石を担がせて鎌倉二階堂に建立した平安貴族風の雅やかな御殿であり、建久三年に生まれた実朝がちょうどこの季節には花見や蹴鞠を楽しんだ寺院であった。(余談ながらこの近くには晩年の江藤淳や外交官の加瀬俊一、作家の里見敦なども住んでいた)

生涯のライバルであった後白河院亡き後、頼朝は念願の征夷大将軍に就任し、その声望は天下の頂点に到達する。同年一二月三日に生後間もない実朝を両腕に抱いて千葉常胤、三浦義澄、小山朝政、和田義盛、畠山重忠、安達盛長、梶原景時など幕府叢生の苦労をともにした御家人の前に喜色満面の笑みをたたえて姿を現した頼朝は、「此嬰児鐘愛殊に甚し、各意を一にして将来を守護せしむ可きの由、慇懃の御言葉を儘され、あまつさえ盃酒を給ふ」(岩波文庫吾妻鏡三)と原文にあるように、源家の将来を託した息子への忠誠を、心と言葉を尽くして信頼する武将たちに頼んだ。

御家人衆はそれぞれが実朝を抱き、各自がそれぞれ腰刀を献上して頼朝の要請に応えることを確約したのだが、のちの北条政権の陰惨な歴史が残酷なまでに示しているように、その大閣秀吉の晩年にも似た征夷大将軍の悲願が実現される日は、ついに訪れなかったのである。

ついぞ知らずあわれ北条の陰謀に滅亡するとは 茫洋

2009年4月 5日 (日)

鎌倉の花の都に遊びけり

鎌倉ちょっと不思議な物語第172回

春の日の昼下がり、桜見物を兼ねて北鎌倉の「台(だい)の峯」に行ってきました。案内人は最近岩波書店から写真集「鎌倉の森 台峯」を出版された写真家の関戸勇さんです。

1964年、鎌倉では作家の大仏次郎などの提唱で鶴岡八幡宮の裏山一帯を市民が買い上げることに成功しました。これが日本で初めて実現したナショナルトラスト運動(貴重な歴史的自然環境を市民が買い上げる)でしたが、1998年、2回目のナショナルトラスト運動が起こりました。それがこの台(だい)の峯緑地36.7ヘクタールと広町の森38ヘクタールの保全運動です。

不動産会社が買い上げ開発しようとしていたこの広大な手つかずの自然の森を守ろうと関戸氏など自然を愛する心ある人々が立ち上がって署名と交渉と陳情を繰り返した結果、ついに2002年10月に広町を、そして2004年12月にはこの台峯を鎌倉市が不動産会社から買い取ることで合意しました。最後に残されたこの植物と動物(そして市民の)聖域を死守することができたことは、この町とこの町に住む人たちにとっての大いなる幸福と誇りであり、ユネスコの世界遺産になど登録されなくとも、後世への最大の遺産となるでしょう。

 台峯は北鎌倉の駅で下車して円覚寺の反対側の山の上に向かって20分くらい歩くとその入口に到達する北西から南東に長々と伸びた尾根、3つの谷戸と1つの池、そして中央公園と田圃を含む広大な森です。そこは四季折々に花々が咲き、樹木が茂り、チョウやホタルが乱舞する現代の秘境です。

 今日は梶原の急坂を登って鎌倉中央公園の右側の細道を進んで、関戸さんが自ら命名された巨大なお化け桜「大蛇(おろち)桜」をとっくりと観賞したあと、清水谷戸に降りて北大路魯山人旧庵の右側を通って倉久保の谷戸に入り、清らかな水を湛えた谷戸の池を抜けてふたたび高台に登りました。

眼下にさえぎるものなく隈なく見えるのは六見山とその麓の円覚寺、北鎌倉駅、そして山全体をぎっしりと埋めたソメイヨシノ、オオシマザクラ、ヤマザクラの大パノラマです。これまで私は鎌倉で最も見事な景観は円覚寺の高台から眺めた台峯の麓と信じてきましたが、あにはからんや、その上をいく光景が横須賀線を挟んでちょうど反対側にあったとは! 関戸さんが自画自賛されるまでもなく、これぞ天下の絶景、鎌倉随一の眺望でしょう。

 思う存分桜を堪能しながら春の森林浴を楽しむことおよそ3時間、私は全身に心地よい花疲れを覚えながら帰路についたことでした。

♪鎌倉や花の都に遊びけり 茫洋

♪我こそは森の王なるぞおろち桜 

♪鎌倉の台の峯を訪ぬれば緑の蛙慌てて逃げおり

2009年4月 3日 (金)

背広の値段 

ふあっちょん幻論第42回

明治20年代当時、もりそばは1銭5厘、下宿代350銭、フロックコート仕立て23円、英国地フラノスーツは16円であった。そこで高価な1着であらゆるTPOに対応するべく、明治の洋服は礼服(主にフロックコート)需要に集中したのである。

明治22年、正岡子規は、「3年前に8円で作らせた軍艦羅紗の外套が粗悪品だったので12円で上等品を仕立てた」と彼の随筆「筆まかせ」に書いている。

この頃の注文服は大卒初任給の給料と同額であったが、これはその前の時代の「仕事着としての和服」を月給を前借りして1か月分の値段で仕立てていた伝統が残ったものと思われる。

ちなみに昭和3年1928年の大卒初任給は50円。これは当時のオーダーメードと同額であり、きわめて高価な「高嶺の花」ともいうべき価格であった。そこで「着心地より丈夫で長持ち」の思想が生まれる。

私の知人で最近バーバリーのコートを大枚をはたいて買った女性がいるが、「一生物を長く大切に着たいから買った」と言っていた。

衣服にも資産価値を追求する思想をinvestment clothingというが、これはファッション誌「ハーパースバザージャパン」の最新号のテーマであるから、およそ100年近く威力をふるっている衣装哲学であるといえよう。

♪着古したセーターが人間より長持ちする考えてみれば不思議だなあ 茫洋

2009年3月31日 (火)

西暦2009年茫洋弥生歌日記

♪ある晴れた日に 第55回

親子三人手と手を取り合い海辺の墓地に死すさながら西方浄土にあらずや

遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら

坊やさあいらっしゃいとたばら蟹のごとき両肢で僕の下半身を絡めとる高樹のぶ子

もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが

少年にして少女のかんばせカルジャが撮りし17歳のランボー

われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし

真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声

新幹線ではビュフェでカレーがいいよと教えてくれしおじもビュフェも今はなし

春の朝甲本ヒロトシャウトせり人には優しく

洛北の北白川なる重度しょうぐあい施設湯船を埋めし黄色い雲古かな

我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな

青池さんより頂戴せし土佐文旦残り3個となる惜しみて食べられず

土佐文旦手に持てばわが失いしもの程の重さかな

息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき

吾のため子のため母のためたった7年で地球を2周せしカローラの妻

北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰

言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました

隣席にどさり腰かけ携帯す若き身空でニコチンにおう

金はないのに無茶苦茶に無駄遣いしたくなる

月並みの俳句を詠みて月並みの男となりにけり

己の屁の臭い嗅ぐああ生きているな

懐かしき人死して鶯さわに鳴く 

春三月わたしの園を荒らすのは誰だ

千葉県で太陽に向かって吠える男

コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな

蛇のような棒か棒のような蛇か

いつも物見の上にいる鷹のやうに

―ある回想

夢の中でKに会った。Kは言った。W大闘争を総括してみろ。

俺は答えた。あれはスポーツだったよ。

夢の中でWに会った。俺は言った。

貴様は俺をリストラしたうえ会社を目茶目茶にしてしまったな。

Wは怯えた目をして走り去った。

にんげんは過去のしがらみからはどうしても逃げられないものである。

♪新宿ビックカメラで60円で売れたCD-RWうれしいやら悲しいやら 茫洋

2009年3月30日 (月)

浄光明寺と「地蔵やぐら」

鎌倉ちょっと不思議な物語第171回

またこの浄光明寺には、これら数多くの史跡とともに、これからご紹介する「地蔵やぐら」通称「網引きやぐら」があります。

「地蔵やぐら」の天井には天蓋をつりさげた円形とそれを支えた梁の跡の溝がみられ貴重な遺跡となっています。また安置されている地蔵像は制作年代が正和2年1313年と銘記されていることが評価されており、冷泉為相が寄進したという伝承があるそうです。母の阿仏尼の尽力に深く感謝してこのお地蔵さまを造営したのではないでしょうか。鎌倉時代から南北朝にかけては訴訟の時代であり、男性はもちろんのこと阿仏尼のような女性たちも幕府に対してどんどん異議申し立てを試みています。

さらにこの浄光明寺には徳川家ゆかりの尼寺英勝寺に仕えた水戸徳川家の家臣の墓地やぐらや、鶴岡八幡宮の神職大伴氏とその家族の純神道式の笏型墓碑が3基あり異彩を放っています。

けれども私がもっとも心を傷めたのは、つい最近亡くなられたこの浄光明寺住職にして偉大な考古学者兼中世史研究家であった方のお墓でありました。思えば今を去る20数年前、私がはじめてこのお寺を訪ねたおりに、懇切丁寧に寺院や仏様の由来について説明してくださったのは、ほかならぬ大三輪龍彦氏でありました。

私は鎌倉の歴史について多くの示唆を与えてくれたこの先学に深々と頭を垂れてから、うぐいす鳴く浄光明寺を辞したのでした。

懐かしき人死して鶯さわに鳴く  茫洋

千葉県で太陽に向かって吠える男

2009年3月29日 (日)

春の浄光明寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第170回

浄光明寺は皇室の菩提寺である京都の泉涌寺を本山とする「準別格本山」であり、慶長3年1251年に6代目執権の北条長時が真阿上人を開山として創建したお寺ですが、それ以前に源頼朝が頼んで文覚上人が建てたお堂がそもそものはじまりだそうです。

元弘3年1333年には後醍醐天皇の勅願所となるいっぽう、真言、天台、禅、浄土の4つの勧学院を建て、学問の道場としての基礎を築きました。また足利尊氏は建武2年1335年にこの寺にこもり、後醍醐天皇に反逆することを決意したといわれており、尊氏、直義兄弟の帰依と奇進と受けたのです。兄弟が足利家執事の高師直の軍勢に十重二十重に取り囲まれたのもこの寺でした。

本堂横の収蔵庫には本尊の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩が安置されています。地蔵菩薩立像は矢拾地蔵とも呼ばれ、足利直義の守り本尊でした。篤信家の直義でしたが兄尊氏との私闘に敗れ、最後は同じ鎌倉の浄妙寺で無念にも殺されてしまいます。しかしその同じ直義が後醍醐天皇の皇子護良親王を暗殺しているのですから因果は巡る風車といったところでしょうか。

浄光明寺の裏山には、一四世紀の歌人、冷泉為相の墓(宝塔印塔)があります。為相はあの有名な歌人藤原定家の孫で、父の死後遺領の相続をめぐって異母兄と争い、その訴訟のために鎌倉へ下向した「十六夜日記」で知られる母の阿仏尼のあとを慕って当地に入ったのです。

♪北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰 茫洋

2009年3月25日 (水)

「瓜ヶ谷やぐら」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第168回

今度は坂道を東にわたって田圃に降りて海蔵寺の麓あたりに位置する瓜ヶ谷やぐらに向かいます。ここは別名「東瓜ヶ谷やぐら」、五つの穴がありますが、一号穴は「地蔵やぐら」とも称される約二〇畳くらいの大型やぐらです。壁面には多くの彫刻があり、第一級のやぐらとして高く評価されています。この先の葛原岡神社付近はかつての刑場跡といわれ、このやぐらの山稜部では荼毘所の跡が発掘されているので、このやぐら近辺も一連の葬祭施設が点在していたと推測されています。

一号穴は天井の一部崩壊により造立時の床は底上げされていますが、地蔵菩薩を中心に仏殿形式が整っています。中央には地蔵菩薩坐像が鎮座しており、左腕と胸の間の溝に塗色らしきものがみられます。左壁には龕(仏像を納める厨子)と納骨穴、奥壁には高さ一六七センチの坐像、高さ一五一センチ厚肉彫の大五輪塔、龕と納骨穴がずらりと並び、右壁には鳥居と神殿、地蔵菩薩立像、神像、龕などがあり、神仏融合の面影が残っています。

二号穴は厚肉彫の大五輪塔があって梵字がよくのこっています。また三号穴は三方に石棚があって壁には五輪塔が八基刻まれており、彫りかけの状態のものもあります。

♪吾のため子のため母のため7年で地球を2周せしカローラの妻 茫洋

2009年3月22日 (日)

「一四やぐら」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第167回

私たちはまず北鎌倉の「西瓜ヶ谷やぐら」を訪ねました。鎌倉時代に鎌倉とそれ以外の地を切り離している地点に十王堂橋がかかっていました。ここには関所(交番)もあり、この十王堂橋から大切岸(瓜ヶ谷やぐら)または梶原方面に抜ける切り通しがあったと伝えられています。あの一遍上人が北条時宗によって追い払われたのもまさしくこの場所ですが、私たちはここから坂を登ります。

「西瓜ヶ谷やぐら」は別名「一四やぐら」ともいわれ、このやぐらを含む森全体が遺跡とみられています。かつてここには寺院があり、埋蔵物も多いと考えられています。

ちなみにこの瓜ヶ谷という地名は、かつて源頼朝の乳母、比企の禅尼がこのあたりで瓜園を造ったからだそうです。そのせいか、この近所では都会では珍しくまだ田圃が残っています。

山麓にある「一四やぐら」は鎌倉時代後期の造立で、一級の厚肉彫五輪塔が残存しています。五輪塔とは五つの鎌倉石を積み上げた塔で、下からそれぞれ地輪、水輪、火輪、風輪、空輪と呼んでいます。

ここでは故人の冥福を祈る追善供養のために、初七日から7日ごとに五輪塔を造り、後に一周忌などの法要にさらに塔を増築したと思われます。また中央の大型の塔(四五日法要用)には梵字の一部が残っています。

板碑と五輪塔はかなり風化していますが二か所あり、上段のやぐらは左側にも広がっていると考えられます。五輪塔の下の塚は人工的に盛り土されたもので「富士塚」または「経塚」跡とみられています。

♪息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき 茫洋

2009年3月17日 (火)

「やぐら」はインド、中国渡来 

鎌倉ちょっと不思議な物語第166回

広辞苑によれば「やぐら」とは「岩石に穴を掘って物を貯蔵しておく倉。また墓所。鎌倉付近に多い」と解説され、矢倉あるいは窟という漢字があてられ、イハクラ(岩倉)の訛りではないかと想像されています。しかしこのような即物的な記述ではこの窟の宗教的な背景を捉えそこなってしまうことは前回に申し述べたとおりです。イハクラがどうしてやぐらに転訛したのかも言語学的にはおおいに怪しまれるところです。

斉藤顕一氏の見解では、やぐらという言葉自体が江戸時代になって定着したものだそうです。つまりあのような岩窟を鎌倉時代になんと呼んでいたかは分からないというのです。鎌倉時代から江戸時代までにはおよそ400年の歳月が横たわっていますが、私たちが現在鎌倉と鎌倉時代の文物についてもっともらしく語っている情報の7割以上がで出所が不明か怪しいと言われるのですから、なにを信じ、なにを退けていいのかおおいに迷います。

さてやぐらの形状については、山腹に垂直面、前面に平場、形の開口部、垂直の内壁と平天井、玄室・羨道・羨門という特徴を持ち、その機能としては納骨と供養をつかさどります。また火葬にされた骨を埋葬するための骨蔵器が仏像や五輪塔、宝篋印塔、板碑、壁面浮き彫りなどの傍に備え付けられており、床下には壇と龕があります。

やぐらからは華瓶、茶碗、かわらけ、小皿、写経石、古銭、鏡などが出土することが多く、内部で使用されている塗色は胡粉、漆、金泥などです。

またやぐらの起源については、鎌倉時代の宋から渡来したさまざまな文物、宗教、文化などのなかにこのやぐらという思想と建築物があって、時の幕府の要職にあった人々がこれを先進的に取り入れたのではないか、という学説が有力だそうです。ということはこうしたカルチャーはおそらく西インドのエローラ、アジャンターなどの石窟寺院や仏教文化がさまざまな仏像と共に中国に東漸し、これが朝鮮半島を経由してわが国に渡来したのでしょう。

鎌倉の立派な石窟を眺めているとE.Mフォスターの小説「インドへの道」の謎の場面が思い出されます。

♪遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら 茫洋

2009年3月16日 (月)

鎌倉の「やぐら」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第165回

鎌倉ガイド協会が主催する「やぐら」探訪シリーズの第3弾に参加しましたので、ここしばらくはその報告をしたいと思います。なお、これから記述する内容は、同協会制作の資料とツアーコンダクターの斉藤顕一氏のコメントに小生の感想を随時付け加えたものですあることをお断りしておきます。

「やぐら」とは中世鎌倉を取り巻く山稜、山腹を穿って造られた横穴式墳墓のことです。ここは小さな石造りの仏殿であり、埋葬、納骨のための墳墓窟でもありました。

この埋葬、納骨は、当時の人々が浄土を求めるひたむきな願望の表れとして営まれたものですから、やぐらは単なる岩窟ではありません。こうしたやぐらのある谷戸全体を聖なる宗教的空間としてとらえる必要があるのではないでしょうか。

さてこのやぐらに埋葬されたのはまずは僧侶たちであり、次にはその僧侶を尊崇して同じ場所に葬られたいと願っていた武士たちであると考えられています。これらのハイソサエティに属するエリートたちはその大半が火葬にされ、やぐらの内部に丁重に葬られましたが、それ以外の一般大衆はほとんどが海岸の近くに土葬にされました。彼らの身体は清浄な海の砂によって清められたと考えられます。

ちなみに現在由比ガ浜のすぐそばにある駐車場や消防署、京急バスの事務所や裁判所などの地下には、これら鎌倉時代の民衆の無数の遺体が発掘されました。私は以前これらの発掘現場に行きましたところ、由比ガ浜の地下数メートルのところに3人の親子と思しき全身の骨が、相模湾の夕日に照らされていた荘厳な光景を忘れるわけにはいきません。

親子三人手と手を取り合い海辺の墓地に死すさながら西方浄土にあらずや 茫洋

2009年3月13日 (金)

鎌倉時代の女性と男性 十二所の歴史と宗教 その3

鎌倉ちょっと不思議な物語第164回

鎌倉時代の民衆の平均寿命はおしなべて五〇歳くらいで比較的長命であった。

女性は一六歳で結婚し、二〇歳になればおばあちゃんとなるが、いちばんたいへんな仕事は洗濯だったであろう。

当時の衣服の大半が麻や楮の素材であったが、これを洗うとゴワゴワに膨れ上がって手で洗うのが非常にやっかいであった。(軍隊に行った男性ならお分かりだろう)

しかし鎌倉時代の女性は、けっして男性に負けてはいなかった。

商業のアルバイトで小金を貯めて、貧乏人の亭主に二か月48%の高利で貸し付けていたことが古文書で裏付けられている。また甲斐性のない亭主を二足三文で売り飛ばした剛の者もいた。結婚に際して夫の候補者を面接していたという話もある。

「夫婦は縁友」という言葉が平家物語でただ一か所だけ出てくるが、この言葉のうちに現代にも通じる合理的で法律契約的な関係性を読み取ることもできるのではないだろうか。

などと鎌倉国宝館の館長は滔々と語られたのであったが、私は用事があったので後半の茶話会をパスして辞去したのであった。

いつも物見の上にいる鷹のやうに 茫洋

2009年3月 1日 (日)

今井和也著「中学生の満州敗戦日記」(岩波ジュニア新書)を読んで

照る日曇る日第232回

異様な妄想に駆られたわが国の軍人たちが、赤の他人の国にでっちあげた奇妙な植民地、満州。1931年生まれの著者は、国民中学生として家族とともに敗戦1年後までの9年間をこの奇妙な植民地第3の都市ハルビンで過ごした。

総面積およそ130万平方キロで現在の日本の3.4倍、仏独伊を合わせた面積よりも広いこの王道楽土の大帝国は、関東軍の陰謀によってわずか半年間で誕生し、たった13年で崩壊した。

人口3000万の満州を、たった20数万人の日本人が支配できたのは、ひとえに関東軍の武力があったからだ。満州事変(宣戦布告すると中立国からの軍需資材の輸入がのぞめなくなるから、戦争ではなく事変と命名した)における死傷者は1199人だったから、日露戦争のわずか100分の1の犠牲者で、日本は満州全土を手に入れたことになる。

敗戦2か月前、学徒勤労令によって満洲の奥地にある王栄開拓団に派遣されていた中学3年生の著者は、1945年8月9日、ソ連侵攻の急報を受けて命からがらハルビンに帰還する。そこで見たものは中国人の白昼堂々の略奪と、われらが精鋭関東軍の鮮やかな遁走という悪夢だった。

ソ連の満州侵攻は寝耳に水だったが、じつは関東軍は、開拓団や一般市民を「棄民」して満州防衛から朝鮮防衛に作戦を切り替えることは敗戦の3か月も前から決めていたのだった。

やがてソ連軍がハルビンに進駐してくると、著者の周囲では暴行、襲撃、略奪、集団自決が相次ぎ、父は「いざという時のために」家族全員に青酸カリを渡す。そして次々に襲いかかる生命の危機と苦難に満ちた屈辱の日々がはじまる……

病気で寝ていた父は中国人の警官に連行され、ハルビンから約200キロ東南にある牡丹江の収容所に入れられ、九死に一生を得たものの、この時の無理がたたって舞鶴に引き揚げて三年後に五〇歳で世を去る。

また髪の毛を切って少年を装っていた姉は、突然侵入してきたソ連兵にマンドリン銃を突きつけられる。

「その時だった。母が飛び出して銃口の前に立ちふさがり、『まだ子供だから何もしないで!』とロシア語で叫んだ。小柄な母が仁王になった」……

我々の優秀な先輩たち、私やあなたの賢明にして愚かな祖父や父親たちが引き起こした未曾有の国家的災厄が、植民地に生きる平凡な一家族の身の上に突如嵐のように襲いかかり、日々の平安が根底から根こぎにされていくありさまが、一人の少年の汚れなき瞳にくっきりと映じる。

その描写はあくまでも冷静に抑制され、歴史的な事実が淡々と述べられていることが、かえって私たちの胸を打つのだが、同時に、「それらの惨劇がそもそもなぜ、どのようにして引き起こされたのか?」という鋭い問いかけも忘れられてはいない。「これだけは後世に語り遺しておきたい」という著者の熱い想いがひたひたと伝わってくるのである。

「一度目のあやまち」を故意に忘却しようとし、「二度目のあやまち」を犯そうとする日が急速に近づきつつある今日この頃、平成の大瓦壊期に棲息するすべての国民にとっての必読の書であろう。

これだけは次の世代に伝えたい 恩師が綴りし入魂の一冊 茫洋

2009年2月28日 (土)

西暦2009年茫洋如月歌日記

♪ある晴れた日に 第53回

愛国のマーチに胸は高鳴りて今宵さんざめくブラスの祭典

 

あやしくも胸揺るがすは極彩のジンタブラスの猛き咆哮

 

わが庵にはじめて咲きたる梅の花二輪なれども姿うるわし

 

待ち待ちてついに咲きたるむめの花二輪に添いて妻と楽しむ

果樹園の白梅いまだ四分咲きにして富士のお山は本日見えず

長男と泉水屋にて京急バスの回数券買う楽しき日曜

大いなる楠の幹を切り倒し横浜への眺望ひろげし仕業を憎む

遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ

つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら

明日持っていく物は今晩中に揃えておきなさいなんて母も言わなかった

嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳

雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君

オバマとなら和解してもいいとフィデルフィデル和解せよ

香ばしき麹の匂いに包まれて年九袋の味噌を仕込めり

余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけた白き髪

君は岳私は大天使ガブリエル二人で成りきる風のガーデン

お父さんがく君のがくは八ヶ岳の岳だよと息子いい

思藻がないから語らない 歌がないから歌わない

拝金のドグマで全身武装して装備して朝から晩まで金利を語る

障ぐあい者万歳! 万国の障ぐあい者団結せよ!

キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人

悴む手われもまたミミのマフにて温まりたし

おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで地獄の釜が抜けるまで

新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律

あほばかの鎌倉市役所が薙倒したる不毛の荒野に土根性蛙あり 

人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし

この春もおたまに出会いしうれしさよ

紅白の梅を咲かせた古家かな

落ちていく世界の底が抜けるまで

鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク

春雨を聴くや五尺の土の下

 

コゲラ叩く大樹の下を通りけり

ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり

♪青空や日本全国梅便り 茫洋

2009年2月27日 (金)

牧原憲夫著「小学館日本の歴史・文明国をめざして」を読んで

照る日曇る日第231回

明治7年1874年7月、に尊敬すべき父兄の遺体を平然と火葬する仏教徒に怒り狂った神道派の要請を受けて、同年7月、明治政府は「火葬禁止令」を布告すると、火葬派の仏教徒のみならず多くの国民からの反発が高まった。

著者によれば、わが国における火葬の歴史は、文武天皇4年700年の僧道昭からはじまる、と「続日本紀」に記されているが、実際にはそれ以前に火葬された人骨が多数出土しているそうだ。私の住まいのすぐ近所にも鎌倉時代の「国立中世火葬センター」の遺跡があるし、火葬は我が国の伝統的な古くからの葬礼作法のひとつだった。

お釈迦さまも火葬されたが、たまたまそれがインドの風習であったからに過ぎず、「そもそも仏教の教義と火葬とはまったく関係がない」と、著者はいう。実際当時の仏教徒の大半は土葬であり、江戸時代の江戸、大坂、京などで火葬が広まったのは、墓地不足が原因だった。

ただし浄土真宗だけは例外で、祖霊信仰を否定した親鸞が簡便な葬礼として火葬を勧めていたために、「火葬禁止令」が出ると、各地の門徒は土葬した墓の上で薪を燃やして心を慰めるしかなかったそうだ。

翌明治7年、「朱引内埋葬禁止令」が出されたのをきっかけに、火葬派がいっせいに反撃を開始する。「火ほど清いものはない。埋葬スペースが狭いから都市計画の妨げにならないし、どこで死んでも家族と離れずに郷里の墓に入れる」。「火葬は残酷だというが、「大切なる体を泥土中に埋め、漬物のように大石を置き、ゆるゆると腐らし、そろそろと蚯蚓責めにするのはいかがなものか」などと、当局に懸命にアピールした。

事実「復活」に備えて遺体を保存してきたキリスト教国でさえ、都市の墓地不足や衛生を理由に火葬が盛んになり、ちょうどこの年には英国でも「火葬協会」が設立されていた。

ちなみに幕末に浦上の家呉隠れキリシタンが捕縛されたのも、仏式葬儀の拒否が発端だった。明治政府は幕府以上にキリスト教を弾圧して国際的な批判を浴びており、キリスト教式の葬儀や墓地をめぐるトラブルも絶えなかったのである。

その結果、明治8年5月には「火葬禁止令」は廃止され、神葬祭用に設置された東京の青山墓地や谷中墓地まで一転して宗教とは関係のない公営墓地になった。また同じ年の11月にはキリスト教を含めた信教の自由が公式に認められ、10年には神道派の拠点であった教部省が廃止され、役場による伊勢神宮大麻の配布も翌11年には中止された。

かつて私はジェーン・バーキンを鎌倉の収玄寺に案内したおりに、彼女から日本の火葬の歴史について質問され、恥ずかしながらろくに答えることができなかったのであるが、いまならなんとか説明できるぞ、と本書を読んでおそまきながら思ったことだった。

思藻がないから語らない 歌がないから歌わない 茫洋

2009年2月23日 (月)

提案と回答と感想 その1

バガテルop89

○提案

拝啓 松竹本社殿

 貴社築地歌舞伎座建て替え問題についての提言

 このたび貴社が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年
竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第
五期の新歌舞伎座立ち上げをひとたびはめざされたことは、歌舞伎座のみならず、
銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でし
た。

 このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目を
みなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全
体の大きな文化的損失だと思います。

 わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではな
く、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断
を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などとい
う都知事の鶴の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。
「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新
しさをふたたび見出すこと」こそ、貴社が、そして私たちが心の中でひそかに求め
ている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。

 だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの
人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊してきた三菱地所さんも
かつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。
東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままの形で残したいと願う私たちの思
いもこれと同じです。

 そこであの不朽の「寅さんシリーズ」をはじめ貴社の輝かしい映画歌舞伎製作と興
業を愛し続けてきた小生からの切なるお願いは、貴社が先日マスコミ発表された「
都知事推薦の現行案」を廃棄して、もう一度「当初のオリジナル案」に戻り、あの
素晴らしい歌舞伎座建て替え案を断行していただくことです。

 貴社と歌舞伎の愛好者、そして全国の心ある人々は、必ずや貴社の勇気ある決断を
支持することでしょう。                     敬具



○回答

この度は、歌舞伎座再開発に関しまして、貴重なご意見をいただき
誠にありがとうございました。
 また、返信が遅くなりまして、誠に申し訳ございません。

 いただいたご意見は関係者に回付いたしました。
 歌舞伎座再開発につきましては、耐震性能の確保、劇場機能の改善、環境保全や地域との共生など様々な角度から計画を検討し、
 なによりお客様の声を第一に反映できるよう、努力してまいる所存でございます。

 今後ともご理解とご支援を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
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松 竹 株 式 会 社   東 京 本 社

○感想

暖簾に腕押しとはこのことか。関係者とはどこのどなたでござるか。

せっかくおだててあげたのに、あまりにつれない返事にがっかり。

石原都知事の意見など反映せずに、私の意見をしっかり反映してほしい。

人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし 茫洋

2009年2月22日 (日)

永井荷風、西洋料理を論ず

ふあっちょん幻論第40回 メンズ漫録その18 断腸亭主人紳士洋装論最終回

ゼントルメンともあろう人物が、洋服に憂き身を窶しても料理にはてんで構わないのはまことにおかしい。

そもそも西洋料理の出来栄えは、コンソメ、吸い物を味わえば、そのすべてがわかる。フルコースなど喰らう必要はないのである。

1926年(大正15年)現在、本邦の西洋料理のベストは、横浜・神戸のホテル、銀座、神田

小川町

の順である。されどデザートや洋酒の備蓄が弱いのは残念なり。白ぶどう酒はボルドー産は甘すぎて食事に適せず。すべからくライン産を備えよ。

銀座周辺地区においての第一位は銀座竹川町コットなりしが、今はなし。日比谷帝国ホテル、築地明石町オテルサントラルよろしからず。けだし東都最美味は虎ノ門東京倶楽部なるべし。されど外交官、華族集会場なれば身分なきものは出入りしがたし。

銀座南鍋町の風月堂良し。木挽町精養軒、芝口有楽軒、京橋三橋亭だめなり。麹町富士見軒、新橋金春通り壷屋よし。

東京市中でアイスクリームが登場したのは明治323年頃のことなり。当時はチップを1割与えしものなり。

浅草公園の料理屋に個々のテーブルなく、NYウオール街のレストランのごとくカウンターで食事するスタイルの食堂あり。これ本邦の最新型スタイルなるべし。

されど、売春婦を写真と切符で買う国民は、世界広しといえども日本国のみならん。浅ましきこと限りなし。

嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳 茫洋

雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君 茫洋

2009年2月20日 (金)

愛犬ムクを悼む歌  没後7周年の夜に

♪ある晴れた日に 第52回

OH!アデュー 人語をはじめてに口にして 

老犬ムクは いま身罷りぬ

ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク

盲目のムク いま昇天す

鎌倉の 山野を駆けし細き脚 

そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり

ここで跳べ ザンブと飛び込む滑川 

ウオータードッグよ 輝きの夏

大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度

振って廻して ぶん投げしムク

ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク

目の毒液をヒリヒリはがす 

17年 一直線に駆け去りぬ 

今一度鳴け 野太きWANG!

      

「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と
鎌倉保健所は葉書を寄越せり。

庭に眠るムクのからだの腹のあたり

濃き紫のアサガオ咲きたり

崖下の庭の土なるムクの墓

アオスジアゲハ雌雄乱舞す

まぎれもない獣の臭いが好きだった

丘の上にて尾振りし汝(なれ)の

春風に吹かれて一声吠えるムク

丘に立ち一声吠えしうちのムク  

鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク

春雨を聴くや5尺の土の下 

2009年2月19日 (木)

永井荷風いわく、「赤靴は欧米ともに夏にのみ使用す」

ふあっちょん幻論第38回 メンズ漫録その16 断腸亭主人紳士洋装論その7

ハンケチは晒し麻白を上等とす。熱帯植民地はかならず驟雨があるので、欧州では外出時に傘を携行するのである。

ヘルメット帽は雨には傘となり、炎天には空気が通いて涼しく、熱帯には最高である。日本でも一時流行したのに、なぜ最近廃れたのか?

赤靴は欧米ともに夏にのみ使用す。ただし絶対に礼式用ではない。だのに日本でフロックコートを着て赤皮の半靴を履く人種あり。これは、紋付羽織袴で足袋を履かずにいるようなものなり。

コゲラ叩く大樹の下を通りけり 茫洋

2009年2月18日 (水)

永井荷風いわく、「肌着を人目にさらすなかれ」

ふあっちょん幻論第37回 メンズ漫録その15 断腸亭主人紳士洋装論その6

  

永井荷風またいわく。メリヤス(ニット)肌着は褌(ふんどし)と同様、いかなる場合にも人目に触れてはならない。

ホワイトシャツの袖を捲り上げても、肌着は出すな。シャツは米国では白のみならず変わり縞多数あり。これ英国流にあらず。

近年堅いカラーの代わりにシャツと共色の柔らかい襟を使う例あり。これぞ米国の若者流なり。

米国は欧州と違って夏暑いので、お上品ではない。日本では温度は米国より低いが、湿度は高い。洋服には不便であるが、むかしは「武士のカラ脛、奴の尻の寒晒し」と言うておった。いつの世にも勤めはつらいものなり。されど極力、南洋植民地風にせず、せめてNY風をめざすべし。

ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり 茫洋

2009年2月17日 (火)

荷風いわく「鳥打帽はパリの新聞売りのためのものだ」

ふあっちょん幻論第36回 メンズ漫録その14 断腸亭主人紳士洋装論その5

永井荷風またいわく。帽子は洋服に合わせること。鳥打帽は銃猟、航海旅行用、そしてパリの新聞売りのためのものだ。黒の山高帽が普通である。

米国の東部の都市では晴雨ともに風の勢いが甚だしいので、中折れ帽は吹き飛ばされて不便である。その点夏炎天下でも山高帽は大層具合がよろしい。

中折れ帽は春から夏にかぶるべきものであるが、毎年色々な流行があるので、すべからく背広に合わせよ。日本人の古ぼけた中折れは西洋では職人労働者のものだ。

ただし米国では白人階級の上下の差別が無いため、日曜日には職人も黒の山高帽を頭にのせて女房同伴で教会へ行く。パナマ帽は英国で少しは見かけるが、米国では全然見かけない。英米はなんといっても麦藁帽が主流である。

おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで 茫洋

2009年2月16日 (月)

荷風いわく「日本製は中国に劣る」、と。

ふあっちょん幻論第35回 メンズ漫録その13 断腸亭主人紳士洋装論その4

永井荷風いわく。洋服仕立ては日本より中国に限る。とりわけお薦めしたいのは帝国ホテル前のシナ人洋服店である。銀座の「山崎」などは糸を惜しみ、なおかつ高い。縫い目、ボタンのつけ方健固ならず。まことに「日本の商人ほど信用を置きがたきはなし。」

あまでうす註。この山崎とは、米国ミッチェル裁断学校を卒業した山崎隆造を指す。後に彼は明治37年開催の米国万国博覧会仕立て服コンクールで金賞を受賞し、銀座に「山崎高等洋服店」を開いたが、荷風はその「山崎」が駄目だと言っているのである。また当時の国産よりも中国人による縫製に軍配を上げているのも興味深い。荷風自身もシナ人などと慎太郎風の「差別用語」を使っているように中国への蔑視はあるのだが、にもかかわらずいながらも、見るべきところをきちんと見ている冷徹な文学者の視線に感動すら覚える。

それはともかく、いずれ21世紀のわが国の全産業部門で、こういう荷風的事態を迎えることだろう。

新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律 茫洋

2009年2月14日 (土)

断腸亭主人の紳士洋装論その2

ふあっちょん幻論第33回 メンズ漫録その11

日露戦争以来10年、学生とも軍人ともつかない一種の制服姿の男どもが東京に跋扈するようになった。ドイツ陸軍かぶれの金ボタン、立襟の制服に辟易したものである。

それはともかく、銀行などの夏服は白立て襟の洋服に扇子を持つのがお洒落ということになっていたようだが、(荷風の勤務先は横浜正金銀行)これは上海・香港のような植民地ファッションであって悪趣味のものである。特に扇子というものは、西洋婦人や紳士の杖と同様、儀礼的にただ手に持つべきものである。それをバタバタと扇ぐなどもってのほかである。ともかく日本はやることなすことちゃんぽんで野卑に堕すことが多い。繰り返すが、扇子で扇いではならない。

欧米の紳士は1日に3度洋服と帽子を取り替える。他家を訪問する際はフロックコートを着るべきである。フロックコートは高帽子と組み合わせると、品がよくて最高にカッコイイものなり。また夕方からは燕尾服を着るべきである。

またジェントルメンは、寒暑にかかわらず手袋をする。杖は絶対に突いてはいけない。

荷風散人曰く。「先に土のつきたるは見苦しきものなり。室内も持ち歩くのみ。」

あまでうす曰く。そんなこととは知らなんだ。

果樹園の白梅いまだ四分咲きにして富士のお山は本日見えず 茫洋

2009年2月13日 (金)

永井荷風の紳士洋装論その1

ふあっちょん幻論第32回 メンズ漫録その10

日本人洋服の着始めは、旧幕府仏蘭西式歩兵の制服であった。その頃、人々はこれを「膝取りマンテル」などといった。御一新となり、岩倉公らの西洋視察(明治4-6年)後、文官の大礼服もでき、上級役人は洋服を着て馬に乗ることとなった。日本では洋服は役人と軍人が公式時に着るものとなった。

内務省の役人だった荷風の先考久一郎は、とてもダンディな人だった。明治12年現在だというのに10畳洋間にイス、テーブル、長椅子をすえつけ、ストーブをたいて、テーブルで家庭料理を楽しんだ。

役所から帰宅すると、彼は洋服を脱ぎ、エビ色のスモーキングジャケットに着替え、英国風パイプでお勉強に励んだ。また雨の日には、木の底をつけた長靴で出勤したという。

断腸亭主人いわく。「上野精養軒にいきて、わが家と同じ料理なりと奇異の思いしたり。」

鹿鳴館華やかなりし頃、荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ、ここから洋服で幼稚園に通っていた。小学校時代は海軍服に半ズボン姿でそれは15、6歳まで続く。

「襟より後ろは肩を被うほどに広く折り返したカラーをつけ、幅広きリボンを胸元にて蝶結び。帽子は広いつば、鉢巻リボン。頭髪は西洋人のように長く刈り込みたり」

永井荷風はファッションはもちろんのこと、衣食住のすべてにおいてヤングジャパンの欧化文明の最凸端で生活していたことになる。

余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけし白き髪 茫洋

2009年2月 4日 (水)

桐野夏生著「女神記」を読んで

照る日曇る日第228回

次々に新しい活動の領域を開拓している気鋭の著者によって、「古事記」の解体と再構成、語りなおしが敢行された。

ここでは「古事記」における神話的な伝承と言葉が、現代にも通底する男と女、女と男のかかわりあいの生々しい対立とぎりぎりの対決の問題として解釈され、語りなおされている。

私たちは著者とともにイザナギ、イザナミの二神になりかわって、国や山河や八百万の神を、つまりはこの世を、全世界を、産み直すのであり、そのことを通じて、父母未生以前の原始的な創世期における、人と人、とりわけ男と女、女と男の相関関係についての記憶と認識を新たにすることになる。

いっぽうそれは、国土未生の状態から初源の国産みにいたる全プロセスの追体験でもあり、柳田國男や折口信夫などの民族学者たちによって考察された南方諸島文化と本土文化の相関関係に対する現代文学からの清新な回答でもある。

「古事記」では諸神中の神として鎮座ましましているイザナギ、イザナミの二神は、ここでは愛と憎悪、怒りと悲しみの化身となり、黄泉比良坂をいくたびも往還しながら、人間的な、あまりにも人間的な、男神と女神の壮絶な争闘を繰り広げ、とどのつまりはギリシア神話にも比定すべき氷のように美しい女神の哀切な勝利宣言で全編の幕を閉じる。地球と宇宙は、母なる子宮と原子心母を軸にして繋がっているのだろうか。

私はこの下りを目にしながら、ムラビンスキー、レニングラードフィルによる「悲愴」の息も絶え絶えな終楽章の断末魔の響きを確かに聞き取ったのである。

遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ 茫洋

2009年1月29日 (木)

これが歌舞伎座?松竹は、歌舞伎座建て替え案を白紙撤回せよ

勝手に建築観光33回

「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」。これが私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。

だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊した悪評高い三菱地所もかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。

東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままの形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。

だとすれば、このたび松竹が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをめざしたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。

 このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。

 以上の観点から、松竹本社は昨日マスコミ発表された都知事推薦の現行案を廃棄して、もう一度当初の案に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を再検討していただきたいのです。心ある市民は必ずや松竹オリジナル案を支持することでしょう。

2009年1月28日 (水)

松竹は「石原都知事案による歌舞伎座建て替え」を中止せよ

勝手に建築観光32

東京築地の歌舞伎座では、いま異例のさよなら公演を行っています。

1924年に建てられ、米軍機による空襲で被災し、50年に改修され、02年に国の登録有形文化財に指定されたこの由緒ある建物については、私もこれまでこの日記で再三触れてきましたが、その老朽化が進んだためにどうしても建て替えるというのです。

物には寿命があるので建て替え自体は仕方がないのでしょうが、親会社の松竹が都に申請した第1次建て替え案を石原東京都知事が却下したために第2案に変更したというので驚きました。

今回の計画に携わった伊藤滋・早大特命教授らによれば、当初松竹は現在の歌舞伎座の原型となった太平洋戦争前の歌舞伎座を復元する計画だったそうです。ところが知事が事前の調整段階で注文をつけて、私見ではこのきわめてまっとうな復元計画を己の一存で葬ったというのです。

28日附の朝刊にはその改定案の写真が掲載されていましたが、それはこれまでも丸ビルや表参道ヒルズなどで実施されていたオリジナルの一部を形式的に踏襲する中途半端な折衷案でした。しかし施主が当初目指していたのは、価値ある文化財を単に復元するのみならず、光輝ある歌舞伎の殿堂をより歴史に忠実に再現復古しようとする意欲的な方法論でした。

これはたとえて言えば両国の国技館の立て直しにあたって江戸時代の回向院の相撲小屋、連合軍の爆撃によって崩壊したドレスデンの国立オペラをその一時代前の様式で再建しようとする試みにも似た「本格的な復古再現建築」への挑戦でした。

わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという一知半解の近代化論者の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。

逗子海岸の丘の上の豪邸に住み少年時代から金持ちのぼんぼんとして育ったこの人物は、おそらく生まれてから一度も銭湯などに入ったことがないでしょうし、宮大工が秘術を尽くして建造した全国各地の銭湯建築や、庶民のあこがれが生み出した富士山のタイル絵の実物を見たこともないでしょう。

東京千住「大黒湯」の絢爛豪華な外装と内装の華麗な宮造りスタイル、花鳥の絵が色彩豊かに描かれた格天井、大寺院にもひけをとらないその完成度を一度でも目にした人なら、「銭湯みたいで好きじゃない」などとは口が裂けても言えないはずです。そのような不遜な言い草は我が国が誇る「銭湯文化」に対する無知であり、いわれなき差別でもあります。

また歌舞伎はいわば日本のオペラで、西欧のオペラとほぼ同じころに誕生した芸能ジャンルですが、それぞれに深い歴史と伝統がありますから、それにふさわしい建築様式で敬意を表さなければなりません。とりわけ本邦の歌舞伎建築においては、オペラ座の大理石と鉄とガラスではなく、重厚な木と紙と漆喰の壁で構築しなければ長唄、下座音楽、義太夫、清元の音響がなじまないのです。

ちなみに現在の歌舞伎座の音響の精妙さは国立劇場はもとより、サントリーホールやカーネギーホールなどをはるかにしのぎ、世界の劇場でも有数のものであることをほとんどの人が知りません。知事がいったいどこのオペラ座を想定しているのか知りませんが、新歌舞伎座は断じて「オペラ座のようにしては」なりません。

また知事周辺は「建て替えに反対したわけではない。ただ劇場とビルの調和がとれていなかった」と話しているそうですが、この場合、調和を破っているのは、そんじょそこらのどこにでもあるモダンなビルのほうです。

古今東西にわたって永久不滅の銀座の象徴であるべき劇場が、もしもありきたりのモダンなビルと調和していたならば、そのビルの外装やデザインをこそ劇場(新歌舞伎座)に合わせて根本的に変えなければならないはずです。

銀座のランドマークともいうべき交詢社ビルや和光ビルの形式的な保存改装が、首都の建築遺産にどれほどの文化的損失を与えたかを考えるとき、残る唯一無二の「世界に向かって開かれた銀座の顔」をどのように維持・保存・強化するのかはきわめて重要な問題です。

わたくしはこの際松竹本社に対して、フランスや中国の文化に圧倒的に無知で無理解な知事のアホ馬鹿勧告を勇気をもって退け、今回発表された改造案をただちに白紙撤回して当初原案に基づく新改築計画に復帰されることをせつに望むものです。

時こそ今は 傾け歌舞伎座!

♪今こそは天下分け目の関ヶ原松竹は断固石原案を退けよ 茫洋

♪歌舞伎座やオリンピックごっこする暇あらば新銀行の算盤弾け石原都知事 

萩耿介著「松林図屏風」を読んで

照る日曇る日第225回

見るたびに日本絵画の底知れぬ磁力に引き入れられる「松林図屏風」であるが、この六双の名品を描いた長谷川等伯を主人公とする時代小説が本作である。

絵師一族とその生涯を取り巻く時代背景をじっくりと調査し、そこから浮かび上がった創作の秘密に大胆な推理と想像を凝らして偉大な芸術家の真実に迫った手際はあっぱれ。第二回日経小説大賞を受賞したのもむべなるかな、といえがばいえようが、まずはタイトルと主題で得をしている。

思いがけないどんでん返しやら時代考証的な意外性も随所に盛り込まれ、飽かせずになんとか最後まで引っ張っていく構想力と筆力はたいしたものだと思うが、さてそれで読後になにが残ったのか。これが信長、光秀、秀吉、家康の治世を生き抜いた絵師のほんとうの生きざまだったのだろうか、と問い返せば胸の裡にうすら寒い空々しさが垂れこめている。どうせ騙すならもっと徹底的に騙して欲しかった、となにやら歌謡曲のうらめしいリフレーンのような木霊が返ってきた。

根も葉もない嘘っぱちを書いていかにもありそうな話だと得心させたら小説として大成功だが、そこそこ根と葉のある話を徹頭徹尾得心させることも意外に難しそうなのである。

♪どうせわたしをだますならさいごのさいごまでだましだましつづけてほしかったあ

茫洋

2009年1月21日 (水)

京都思文閣とわたし

バガテルop85

むかしたった1年間だけ京都で下宿していたことがある。左京区の田中西大久保町という叡電前や百万遍や出町柳や高野に近いところだが、そのすぐそばに思文閣という骨董屋があったと知ったのは、四半世紀の時間が経過して偶然この会社のカタログが時折送られてくるようになってからのことだった。

思文閣ははじめは古本屋だったのが次第に美術品を扱うようになり、最近では若社長の田中大氏が12chの「何でも鑑定団」の審査員として出場するまでになっている。

それはともかく、年に数回届けられるようになったカタログはオールグラビア印刷の立派なもので、ほんらいはそのカタログであれやこれやの高価な珍品を発注するための商材なのだが、私はそんな持ち合わせも余裕もないのでもっぱら古今東西の優品を眺めて楽しんでいる。

私のような素人には図版の上から眺める商品の真贋など知る由もなく、よしんば本物の若冲の逸品であっても自分のものにできるはずもないのだが、それでも漱石、鴎外、露伴、紅葉など文人墨客の筆のすさびを眺めているだけでもしばし浮世の憂いを忘れることができるのである。眼福とはけだしこのようなことをいうのだろう。

しかも毎回陸続と登場する屏風、仏像、彫刻、和洋の絵画と書、壺や陶器、写経、古文書、写本、浮世絵、刷り物、硯、版木、色紙、書簡や断簡零墨に至る多種多様な骨董・美術品には、当たり前のことだがすべて値札がつけられていて、同じ画家や文学者、政治家でもずいぶん値段が違うところが興味深い。

例えば、松平不昧候書状42万円也、頼山陽書状31万5000円、華岡青周洲書状47万2500円也。

いったい何を根拠にこの値段がついているのだろうと考えて見ても、おそらくは誰も決定的な根拠を明かせないところがまた面白いのである。

維新のぼんくら政治家田中光顕(こやつのいたずらに巨大で空疎な墓石を見よ)と足尾銅山の田中正造の短歌が並んでいて、前者が65000円、後者が150000円というのはなぜか納得できるような気がするが、子規の同門である高浜虚子の短冊「一つ根に離れ浮く葉や春の水」が200000円であるのに対して、河東碧梧桐の「ざぼんに刃をあてる刃を入るゝ」がたった120000円であるのがどうにも解せない。

作品、筆跡、人物のいずれをとっても虚子ごとき凡庸な俳諧師の風下に立ついわれのない偉大な野人芸術家碧梧桐のために、私は京都思文閣の鑑定に断固異議を唱えたいのである。

♪堕落腐敗しきった平成俳句界にいまひとりの碧梧桐出でよ 茫洋

2009年1月20日 (火)

アーサー・ウェイリー・佐復秀樹訳「源氏物語」2を読んで

照る日曇る日第223回

ウェイリーによれば紫式部はこの物語のすべての登場人物の年齢や地位や境遇を一瞬たりとも忘れることなく各帖を整然と記述しているという。物語のディテールではなく、その壮大な時間的・空間的な全体構造をきちんと押さえてからこの翻訳に入ったことは、彼のいかにも几帳面で学究的な性格を物語るとともに、この翻訳と凡百の日本語訳との決定的な違いを生んでいる、と思った。

よく源氏物語はプルーストの失われた時を求めてと比較されるが、この両者に共通する骨太の物語構造と近代的な心理分析を最初に発見したのがこのエキセントリックなキングズ・カレッジアンだった。彼の翻訳を読んでみると、谷崎や与謝野は全体構造の強固さには無自覚にただ細部の美を舐めるように慈しんでいるにすぎないことがよく分かる。

原作は同一でも、それを極東のローカル文学にとどめるか、はたまた世界最高の文学に押し上げるかは、翻訳者の世界文学の理解の深さの差であることが愚かな私にもはじめてわかったような気がする。

流謫の地から権力の中心に復活した源氏は、二条の館を離れて春夏秋冬四つの季節の名前をつけた東西南北四つの対からなる広大な屋敷を新設し、そこに正妻の紫の上、秋好皇后(六条御息所の娘)をはじめ、明石の上、玉鬘、花散里なぞの愛人たちをそれぞれ配し、対から対へ、御殿から御殿へといくつもの渡り廊下を伝って、あるいは鑓水に浮かべた小舟で遊覧する。

乱れ咲く四季折々の花々と天空から降り注ぐ大宮人の妙なる管弦の響きはまさにこの世に顕現した華麗な一幅の極楽絵図そのものである。ウェイリーはこのくだりを「モーツアルトの交響楽のなかの律動と似ている」、と評しているが、巻二四「胡蝶」を目にしている私の耳朶にも、たしかに彼の最後のハ長調交響曲の終楽章のコーダが遠く鳴り響いていたのであった。

巻末のウェイリーの「解説」も興味深いが、翻訳の佐復秀樹が多用している「主要な」

という現代日本語の使用法は、文法の正則に照らして正しいとはいえない。世間でよく使っている「親交を深める」というジャッグルした表現が正則から少し外れているように。

♪管弦の楽高鳴れば春鶯囀大宮人の宴は果て無し 茫洋

2009年1月17日 (土)

佐藤賢一著・小説フランス革命「バスティーユの陥落」を読む

照る日曇る日第220回

ヴェルサイユで打ち上げられた烽火は平民の町パリの要塞で大爆発を遂げ、それが7月14日の革命として結実した。

この小説の冒頭で大活躍するのは、ミラボーの陰謀によって暴発した弁護士デムーランである。パレ・ロワイヤルの行進からはじまった反貴族、反軍隊、ネッケル復活を旗印とするパリ民衆のデモンストレーションは、ついにテュイルリー公園でのドイツ傭兵との武力衝突を引き起こすが、フランス衛兵隊の支援によって竜騎兵を撃退したデムーランは、一夜にして一躍パリ市民の英雄となる。

しかし王と政府は、シャン・ド・マルスなどパリの四囲に強大な外国軍を待機させ、武力介入の機会をうかがっていた。武器には武器で対峙しなければならない。ダントン、マラーなどとともにデムーランを指導者とするパリ市民は、武器が隠匿されていると思われたバスティーユ監獄に弁天橋さながら遮二無二に突入し、ついに難攻不落の要塞を陥落させる。

フランス革命の一里塚は、このような偶然の暴発ともみえる民衆の盲目的なエネルギーの全面展開によって築かれたのである。暴動こそが革命の母なのだ。かくしてパリの権力は、各種ブルジョワ混成軍の手によって奪取された。

このような首都の高揚を人民の果実とせず、王冠の祝祭と化すためにミラボーは、ルイ一六世のパリ訪問を提起し、それは実現される。一七八九年七月一七日、パリ市政庁の露台に上がった国王は、ヴィヴラフランス、ヴィヴルロワの大歓声に包まれた。

ヴェルサイユの憲法制定国民議会は、ミラボーなど保守派の逡巡躊躇を押しのけてルソーがかつて種を播いた人権宣言を採択し、ロベスピエールを感涙させたがその革命的な法案をルイ16世は批准しようとはしなかった。閉塞状態に陥った事態を打開したのは、パリの平民女性の蜂起だった。降りしきる雨の中「パンを寄こせ」とシュプレヒコールを挙げながらグレーヴ広場からヴェルサイユまで歩き続けた彼女たちは、ミラボー、デムーラン、ロベスピエールなどの革命指導者たちを乗り越え、ヴェルサイユ宮殿の内部まで乱入しルイ16世と王妃マリー・アントワネットを実力で拉致し、再びパリに取って返してテュイルリー宮に幽閉する。無名の、無数の女性たちの活躍で、フランス革命は決定的なメルクマールを刻んだのである。

 

♪女性の蜂起なくして真の革命なし昔も今も 茫洋

2009年1月16日 (金)

佐藤賢一著・小説フランス革命「革命のライオン」を読む

照る日曇る日第219回

そもそもの始まりは王国の財政難だった。貴族が課税に抵抗したためにフランスの国政が混乱し、1788年、貴族の傲慢な居直りを背景に高等法院と政府(財務長官ネッケル)は決定的に対立した。

翌年の8月8日、国民の声に押されて魔がさしたルイ16世は、よせばいいのに何を血迷ったのか全国3部会の招集を発令する。

ここに全国から集まった平民、僧侶、貴族の政治的対立がフランスの国民意識の覚醒をうながし、それが同89年7月14日のバスティーユ要塞攻撃に引火していくのである。

このシリーズの第1巻は、革命前夜の全国3部会の動静をつぶさに描いて興味深い。そこでは王、第1身分の聖職者や第2身分の貴族たちから蔑視されながら徐々に己の権利と権力にめざめていく第3身分の平民たちの姿が、プロバンスの貴族でありながら第3身分代表として全国3部会、後の国民議会の議員となったミラボー伯爵を中心に生き生きと描かれている。

 

「革命の獅子」と呼ばれたミラボーの豪傑ぶりと、その清濁併せ呑む政治的言動に魅了されながら、次第に力を蓄えていくアラスの弁護士で後の独裁者ロベスピエールの初々しい姿、「第3身分とは何か」を書いた僧侶のシェイエス、アメリカ独立戦争にボランティアとして従軍したラ・ファイエット将軍などの実像も新鮮そのもの。あの悪筆家の塩野七生ほどではないが、文章の一部に生硬な表現がみられるが、そんなことより今後の展開が大いに期待される。

♪どんな革命にも大中小の獅子がいた吼えよライオン  茫洋

2009年1月13日 (火)

第5回「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」 

バガテルop84

12君が海や川のそばにいたら

・津波で突然水が増えてくるので、海岸や川岸から離れよう

・海岸で強い揺れに襲われたら、いちばん恐ろしいのは津波。避難の指示や勧告を待つことなく、安全な高台や避難場所を目指す

13学校・職場と確認しておくことは

・集合場所、避難場所を決めて